クラスメート6 春の窓辺
春の窓辺 編
今年の春はゆっくりとやって来た。
近年、桜の開花というのはだんだんと早くなり、入学式にはもう葉桜、なんてこと。珍しくなくなってる気がする。昔──それこそ、小学校の入学式なんかは、満開の桜の下で記念写真を撮ったことを覚えている。
桜色っていうものが具体的にどんな色を差すものなのかわからないのだけれど、ピンク色と白の中間にあるあの色は、見る者を和ませてくれる。桜の下には死体が埋まっているなんて怪談もあるけれど、そんな幻惑めいた不思議な空間を作り出してくれるのも、あの色が暗闇に映えるからだと、あたしはそう思う。
高校の入学式を終えたばかりの頃、新しいクラスの新しい教室で。見慣れない他校の子達と、同じ中学から上がってきた子達とが別れて島を作り、今から始まる新しい生活に希望と戸惑いとを抱えていた時、あたしは一人で窓際の席に座って、ぼんやりと外を眺めていた。
同じ中学から上がってきた子がいなかったわけじゃないけど、特別仲が良かったっていう子でもなくて。ただ、顔と名前は知ってる程度の子と何を話していいのかもわからないし、彼女も彼女であたしに寄ってくるわけでもなくて。
賑やかというよりは、ひっそりとこそばゆいような空気の中で、あたしはあたしで窓からの温かい風に吹かれていた。たった一人で窓際に座っていたのはあたしだけで、だからきっとそれに気づいたのもあたしだけだったと思う。
人気のない校庭の片隅に、人影が見えた。
赤い色だ。
なに、あれ。
それはどうもフェンスの向こう側に見えるようだった。
なんだろう、赤いスカーフかなにかだろうか?
桜色に混じってそれは、ひどくあたしの目を引いた。
すると、その赤いスカーフが空へと舞い上がった。風が吹いたわけでもないのに、垂直に、まっすぐ。空へと飛んだ。そしてこちら側に舞い落ちる。その時にわかった。あれはスカーフなんかじゃないってことが。
ざっと桜の枝を揺らし、花びらとともに着地したそれは、人間だったんだ。
誰もいない校庭に現れた人影。
顔のわからない誰かが、ふっとこちらを見上げた。
遠くて、顔が良く見えない。
ざざ……っと、横風が吹きぬけた。
窓辺のカーテンを揺らし、窓ガラスを揺らし、その勢いに教室内もざわめいた。
白いカーテンがたわんで、あたしの視界を隠す。顔を覆うように襲ってきたそれを慌てて外し、もう一度あの人を確認しようと思った時、その姿は忽然と消えていた。
桜の下には、なにがある──?
鳴り響くチャイムの音と、そこかしこに響く椅子をひく音を聞きながら、あたしは呆然としていた。
なんだったんだろう、あれ。
夢──?
やだな。この学校、幽霊とか出るのかな。
でも、こんな日の高いうちから出るなんて、非常識だわ。
その人の正体が判明したのは、それからすぐのことだった。
担任の先生が挨拶をし、とりあえず生徒の名前を呼び始めた時だった。順調よく進んでいた応答が止まったのだ。
「早乙女らんま」
らんま。変わった名前。
どんな字を書くんだろう? どんな人だろう?
けれど、それに返る答えがなく、先生がもう一度その名を呼ぶ。
「早乙女くんはー、いないのか? あー、早乙女らんま?」
「はいっ」
ガラっと大きな音をたて、後方の扉が開いた。
そこから現れたのは、異質な人だった。
やたらと目を引く、赤いチャイナ服。テレビで見た、太極拳をやってる人みたいな格好だった。呆気にとられたのはみんな一緒だったらしい。声もなく、しんと教室は静まりかえってしまった。
「早乙女くんか?」
「はい、そうです」
「今までなにしてたんだね、君は」
「あー、すんません、寝坊しちまって」
飄々と答える。ちっとも悪びれない態度で、随分と図々しいというか、ふてぶてしいっていうか。
とにかく、腹の立つ人だと思った。
このまま立たせていても仕方ないと思ったのか、先生はその早乙女くんを空いた席に座らせる。前に詰めて座っていたせいで一番後ろの席が空いた状態。臆面もなく「ラッキー」なんて喜びながら席につく。周りに頓着しない人だ。
あたしはそのまま窓際の席についていて、その早乙女くんとは対角線の場所にいる。こうして離れて見ていて、わかった。さっきの赤い服の人は、彼だ。遅刻して、ああやって走ってきたんだ。
入学式に遅刻してくるだなんて、一体どういう人だろう。親御さんは出席とかしてなかったんだろうか。
「──、天道あかね」
「……あっ、はい」
右手を上げて答え、あたしは前に集中した。
*
「あかね、また後でね」
「うん」
手を振って離れていく友達を見送って、あたしはノートを広げる。彼女は今から別の教室で授業がある。選択科目の違いで、同じクラスでも教室が分かれてしまうことがあるなんて、中学時代じゃ考えられなかったことも、今では当たり前みたいに感じるのが不思議。
何クラスかの生徒が集まって行う選択科目の授業。クラスごとに名前順に並んで座るようになっていて、あたしの席は窓際の後ろ。絶好の昼寝ポイントで羨ましいわねーなんて言われたけど、別に本当に昼寝なんて出来るわけがない。眠いのは確かだけどね。とくに、目の前で堂々と寝られるとっ。
まったく、いつもいつも、授業受ける気あるのかしらね……。
あたしの目の前には、もう見慣れたチャイナ服。机に突っ伏して背中を丸めている様子は、なんだかひなたぼっこをする猫みたい。ひとつに編んだおさげ髪がしっぽかな?
あたしはノートを丸めて、背中を叩く。
「ちょっと早乙女くん、授業始まるわよ。起きなさいよ」
「んだよ、うるせーな」
「なんだよじゃないでしょ。あんたにそこで寝られると、後ろのあたしが迷惑なの」
「迷惑なんてかけてねーだろ」
「かかってるわよ。あんたのせいで、先生から目つけられちゃうじゃない」
「へーへー、優等生の風紀委員様は、先生から怒られるような真似はしたくないってことですか」
その言い方にムカついて、あたしは足を伸ばして彼の座っている椅子を蹴る。早乙女くんはガタっとバランスを崩し、慌てて机に手をかけた。大きな音にみんなが注目する。だけどあたしは素知らぬ顔で教科書をめくる。
「──おい、おまえな」
「なんのことかしら?」
「……かわいくねー女」
ふん。勝手に言ってれば?
入学式のあの日が特別だったわけじゃなく、彼は毎日のように遅刻を繰り返す人だった。かと思えば無断で学校を休んだりする、よくわからない人。
あたしはその後、風紀委員になり。
毎朝、彼と遅刻防衛合戦をすることになる。
風紀委員会の遅刻者ノートには、毎日のように彼の名前が記される。
早乙女乱馬。
らんまという名前が「乱馬」と書くのだと知り、ただ恐いだけの人なのかと思ったらそうでもなくて。
口が悪くて、意地悪で。でも、根は悪いやつじゃないんだなってことを、今のあたしは知っている。
こうやって同じ選択科目を受けることになって、
男女無関係に名前で席を決められて、
「さおとめ」と「てんどう」の間にたまたま誰もいなくて。
色んな偶然が、今はなんだか楽しく思える。
昼休み、校庭を駆け回る早乙女くんの姿を教室から見つけてみたりする時、あたしは入学式のあの日を思い出す。
あの日遠くにあった姿が、今はあたしの目の前にいる。
そんな偶然が、今はとても楽しい。