クラスメート8 涙の味
調理実習 編




 実をいうと、あたしは料理があんまり得意じゃなかったりする。
 というか、いわゆる「家庭科」という教科が不得手だ。
 小さい頃から身体を動かすことの方が好きで、男の子に間違われたこともあるぐらいに活動的なタイプ。家に閉じこもっているよりは、外で走り回ることを好む、そんな子だった。
 その逆をいくのが、一番上のかすみおねえちゃん。
 妹のあたしから見ても、すごく家庭的な女の人で。
 男の人って、きっとこういう人が好きなんだろうなあって、年をかさねるごとにしみじみとあたしは実感するのである。



 今日の家庭科は、調理実習。
 かやく御飯と、お吸い物。そしておかずが一品。

「よりによって五、六時間目が調理実習だなんて、ついてないわよね」
「ほーんと、女子高生にお昼の後にさらに御飯を食べろだなんて、何考えてるのよね」
「でもまあ、これがお菓子でも作るっていうんなら──」
「そうそう、それは別腹よね」

 授業中といえど、こんな風におしゃべりをしながらできるのが、他の教科と一番違うところだと思う。
 これもある意味、ひとつのコミニケーションだろうし、黙りこんで作業したっておいしいものが出来るとは到底思えない。
 調理の一番根底にあるものは、作り手の気持ち。
 嫌々作ったって、ちっともおいしくないんだから、やる時は楽しんでやりなさい。
 そう公言している家庭科の荒井先生のおかげで、調理室はいつにも増して賑やかだった。


「ねえ、あかねもそう思わない?」
 そう小百合が訊ねてきた時、あたしはといえば、計量カップを睨みつけ、なんとかメモリ通りに計ろうとしている真っ最中。返事なんてまともに出来るわけがない。
 計量と同時に会話なんて器用なこと、あたしにはどうも出来ないのよね。
「──あかねってば、几帳面ねえ。そんなもの、ちょっと多くても少なくても、たいして変わらないわよ」
「それに、返って成功したりするじゃない、味付けってさ」
 同じ班の子達はそんな風に笑った。なんとか分量通りの計測を終え、調味料を鍋へと投入したあたしは、曖昧な笑みを返す。
(成功もなにも、味つけが上手くいったこと、ほとんどないのよね……)
 普段の自分ならば、計量なんてたぶんやっていないだろう。そんなあたしがこんなにも真剣に計量にいそしんでいるわけは、これがみんなで作る共同作業だから。あたしが失敗すれば、それは連帯責任になっちゃうもの。
 認めてしまうのが情けないんだけど、あたしは料理が下手なのだ。

「あ、やだ。切るの失敗しちゃった」
「いーよいーよ、ちょっとぐらい変わった形の方が手作り〜ってかんじじゃん」
 すると切った結加本人も「そうよねー」なんて笑いながら、それでも今度は慎重に切り目を入れた。そして包丁を握ったままで、あたしに訊いてくる。
「あかねってさー、家で料理とかするの?」
「……え? あたし?」
「そう。結構まじめにお手伝いとかしてそうだもん、あかねって」
 すると、同じ班の子たちも「そうよねー」なんて同意する。
 なんか、あたしってば誤解されてる気がする。基本的にアウトドア派なんだけどなあ……。
 苦笑しながら、答えた。
「全然、まったく。あたしが作るよりおねえちゃんがやったほうがおいしいもん」
「お姉さん?」
「お姉さんが料理作ってるの?」
「あー……うん。うち、母親、いないから」
「──え、あ。ごめん……」
「ううん、いいの。もう随分昔の話だから。小学校の低学年の頃に、病気でね」
 この話をすると、大抵場が重くなる。
 だからあたしは努めて吹っ切れたような言い方をするようになっていた。
 実際、小さい頃の哀しみや重みといったものは薄れてきているし、今は今で「母親がいない生活」というリズムが出来上がってしまっている。
 忘れてしまったわけじゃない。
 だけど、それに捕らわれてばかりでは生きていけないのも事実だった。

「あっ、お鍋ふきこぼれちゃうっ」
「え!? やだ、ちょっと、火、火っ」
「誰が布巾取って〜っ」

「こら、そこの班、静かになさい。シェフは動転しちゃダメダメ。もっと毅然としてなさい」
「先生、あたし達、シェフじゃないよ」
「あら、なんか格好いいじゃないの。そういうつもりで包丁握ってれば、高級料理作ってる気分にもなるでしょう?」
「先生、高級料理で「お吸い物」はないよ……」
 誰かがげっそり呟いた声に、調理室は一斉に湧いた。



  *



 ガラガラと音を立てて引いた扉の中は静まりかえっていて、まだ「夕方」というほど太陽は傾いていないけれど、誰もいない教室の床には机から影が長く伸びている。
「──早く帰ろう」
 呟いて、あたしは室内に足を踏み入れた。
 六時間目の後に生徒会の用事があったおかげで、授業が終わってからもう、かれこれ一時間が経過している。外からは運動部の張り上げる声が聞こえるけれど、校舎内はとても静かだ。
 窓が開け放たれたままになっていて、風で大きくたわんでいる。
 少し色褪せてクリーム色になっているカーテン。
 窓側から二列目の並びにある自分の机に持っていたノートと筆記用具をひとまず置いて、あたしは窓を閉めるためにカーテンを引いて、仰天した。
 カーテンに隠れて見えていなかったけれど、そこには机に突っ伏して寝る男子生徒の姿があったのだ。
 驚いて固まるあたしをよそに、物音に気づいたんだろう。彼が顔をあげ、そしてあたしを見て言った。
「なんでー、おまえか」
「な、なにしてんのよ、早乙女くん」
「なにって、昼寝」
「……放課後に寝るのを、昼寝っていうわけ?」
「まだ夜じゃねーんだから昼寝だろ。他になんて言うんだよ」
「──知らないわよ、そんなこと」
 窓を施錠しながら、あたしは溜め息とともにそう洩らした。
 ほんと、よく寝る奴だ。授業中に寝てるだけじゃ足りないのかしらね、まったく。
「そんなに眠いんなら、早く家に帰ればいいんじゃないの?」
「家じゃ、あんまりゆっくりもできねーんだよ。親父がうるせーし」
「お父さんが?」
「ああ」
 父親に頭が上がらないような、そんな性格には見えないけどな。
 ちょっと意外に思って、あたしはなんとなく話を向けてみた。
「そんなに厳しいお父さんなわけ?」
「厳しいってゆーか、いい加減なんだよ、あの親父は。おれの都合なんてお構いなしだし」
「ふーん……」
 具体的なことはよくわからないけど、それでも言葉ほど嫌がってるようには思えなかった。逆に仲がいいようにも思える。
「仲いいんだね、お父さんと」
「よかねーよ、別に」
「だって、お母さんはともかくとして、お父さんとはそうやって一緒にいるんでしょう? だったら──」
 それを仲がいいっていうんじゃないの? そう続けようとしたら、先に早乙女くんが言った。
「そもそも、おれん家、母親いねーからな」
「──え?」
 思わず言葉に詰まって、あたしは彼の顔を見た。
 言った本人はどうということのない顔つきだった。
 哀しんでいる風でもなく、だからといってわざと強がっている風でもない。
 どう返していいものやら迷っていると、早乙女くんは続けて言う。
「物心ついた時から親父と二人だからなー」
「亡くなった、の……?」
 こそりと訊ねる。すると、あっけらかんと、とんでもない答えが返ってきた。
「さーな。親父のことだから、どーせ逃げられたじゃねーの?」
「に──っ」
 クラクラした。
 そんなこと、なんで簡単に笑って言えるんだろう、こいつ。
 父親のことを野卑しているわけでもなく、また出て行った母親に対して非難する気持ちがあるようにも思えない。
 だからといって、関係ないとか、どうでもいいとか。
 そういう風に思い込んでいるようにも思えない。
 むしろ、それが彼にとって当たり前で、自分の置かれた環境が周囲の同情を生むようなことだとはちっとも思っていないみたいだった。
 たしかに、かわいそうだとか、そうやって憐れみの目を向けられることがどれだけ嫌なものか。逆にもっと辛くなることなのか。身をもって体験しつづけていることだから、よくわかるけど。だからといってここまであっけらかんとしているのも珍しいんじゃないだろうか。
 唖然として、言葉が見つからない。
 だけどあたしは、無意識のうちにぽつりと訊いていた。
「──寂しいって、思ったことないの?」
「さーな。いねーのが当たり前だし。いた記憶もねーからわかんねーよ」
「──そう」


 記憶があることと、記憶がないこと。
 それはどっちが幸せなんだろう。
 あたしは覚えている。
 全部が全部じゃないけれど、楽しかったこと、嬉しかったことは心の奥に刻まれている。
 その思い出があるから嬉しいし、

 思い出があるからこそ、哀しくもある。


 哀しいけれど、思い出を共有する姉や父親がいるから。
 だから母親は、記憶の中で生き続けられるんじゃないだろうか。

 あたしは自分の机の中から取り出したものを、早乙女くんに差し出した。
「なんだよ、これ」
「おにぎり。実習の御飯で作ったの」
 お昼を食べた後では、あまりお腹も空いていないかもしれないから、持って帰る用意しておきなさい。
 前もってそういわれていたので、みんな、小さな弁当箱だとかタッパーだとかを持参していて、あたしもそれを持ってきていた。
 予想外に余ってしまったかやく御飯を、各人が各人で握り──これも、おにぎりを作るという意味で、実習の一環らしい──、あたしも不恰好ながら四つほどつめこんでいる。
「たくさん余ったから、よかったら食べてよ」
「…………」
「──あ、迷惑、かな……」
 なにも言わない早乙女くんに、あたしは居たたまれなくなって呟いた。
 お節介かもしれない。
 第一、いきなり食べ物を渡されたって、迷惑だよね。
 後悔して、あたしがそれを引っ込めようとした時、早乙女くんは慌てたようにタッパー容器を掴んだ。
「なんだよ、くれるんじゃねーのかよ」
「──いるの?」
「いるいる、もったいねーじゃねーか」
 嬉しそうな顔で笑った。
 その笑顔にあたしはほっとして、容器から手を放す。受け取った早乙女くんは、早速中を改めはじめた。
「ちょっと、なにもここで開けなくてもいいでしょ?」
「腹減ってんだよ。帰りにパンでも買って喰おうかと思ってたんだ」
「食べて寝てばっかりいたら、太るわよ」
「けっ、鍛え方が違うんだよ」
「──あ、そう」
 早乙女くんがいる前の椅子に座り、あたしは彼を見る。
 なんだかちょっと暑い気がするのは、窓際で光が当たっているせいだろう。窓も閉めちゃったから、余計に暑いんだ。
 そんなことを思いながら見ていると、早乙女くんはおにぎりを見て、真顔になる。
「か、形はいびつだけど、味はちゃんとしてるから」
「いびつっていう問題じゃねーと思うけどな……」
「うるさいわね、じゃあ返してよ」
「じょ、冗談だよ」
 抱え込むようにして隠し、そして手にもったおにぎり──我ながら、ご飯の塊にしか見えないものを口にして、そうして早乙女くんはまた固まった。
「──どうしたの?」
「どうしたっておまえ……」
 あたしはタッパーの中からご飯を一欠けら千切り、口に入れた。
 途端、思考が止まった。

「…………辛い……」
「おまえ、塩つけすぎだろ、これ」

 おまけに握りこみすぎなのか、妙に固い。まるで一日冷蔵庫で放置した後の既製品のおにぎりみたいだった。
 かやく御飯自体は美味しかったのに、なんであたしの手が入るとこうなっちゃうんだろう……。
「ごめんね、これじゃ食べるどころじゃないわよね」
 情けない気持ちを隠して、あたしは明るい声で笑った。
 早乙女くんのことだ。きっとまた、面白がって笑うに決まってる。
 だけど、早乙女くんは手にしたソレを一口で頬張り、次へと手を伸ばす。あたしは慌てて口を開いた。
「ちょ、いいわよ、無理して食べなくても」
「別に無理なんてしてねーよ。たしかに塩っ辛いけど、喰えねーほどじゃねえし」
 それに腹減ってるからな。
 そっけなく言って、かぶりついた。

 なんだろう。
 急に泣きたくなってきて、あたしは立ち上がった。
「お茶、買ってくる。お詫びに奢るわ」
 カバンから財布を取り出して、あたしは教室を走り出た。
 廊下を走る。
 風紀委員のくせになにやってるんだろう、あたし──

 心拍数が上がる。

 走って、走って。

 購買部の自販機まで、あたしは休みもせずにひたすらに走りつづけた。



 立ち止まったら、きっと、動けなくなると思った。

 口の中に残る塩の味。


 目尻に滲む、涙の味。