伸ばせ
ない
 手




「どうしましょう……」
 かすみが溜め息と一緒に現れた時、一同は居間で思い思いの行動に耽っていた。
「どうしたー、かすみぃ」と、新聞を読みながら早雲が訊ねる傍らで、饅頭を食べながらパンダがパフォっと一鳴きする。その頭をぽかりと殴った乱馬は女の姿のままで、あらあらまたお湯をわかさなくっちゃ、と考えるかすみに、雑誌から顔を上げたなびきが、「どうしたの、おねーちゃん」と訊ね我に返り、再び長女は呟いたのだ。

「どうしましょう」




 事態は単純にして明快でかつ、深刻だった。
 これならば、「お米がなくなったの」と言われた方がどれだけよかっただろうと、皆が思った。その瞬間、家族の心は間違いなくひとつであった。
 そしてこれからもひとつだろう。
 一丸となってこの緊急事態に備えなければならないからだ。

「キッカケはなんだったのかね」
 家長はまず長女に対し、重々しく訊ねた。
「わからないの。突然だったのよ、あかねちゃんが来て、今日は私が作るから、って」
「でも、だからってあかね一人にやらせることないじゃない」
「だってあかねちゃんが、お姉ちゃんは絶対邪魔しないでーって、台所から追い出しちゃったんだもの」
 はあ……と、頬に手を当て俯く彼女が正直一番気落ちしていることだろう。家の食卓を担っている身としては、その場が崩壊することを良しとするわけがない。
 しん、と静まった居間の空気を今度は次女が破った。
「乱馬くん、身に覚えは?」
「な、なんでオレなんだよ」
「あかねが張り切って料理するなんて、乱馬くん絡み以外に考えられないじゃない」
「そうとは限らねーだろ、あかねの気まぐれって可能性も……」
「だとしても、よ」
 弁解を始める乱馬をビリシと遮断するように指を立て、天道なびきはずずいと顔を寄せた。
「一番の可能性が乱馬くんであるかぎり、まずは乱馬くんが探りを入れてくるべきね」
「うむ。宜しく頼むよ、乱馬くん」
「パフォ」
「てめーら……」
 拳を握ってうめく少年──もとい、少女の肩を、そっとかすみが叩いた。
「乱馬くん」
「かすみさん」
 さすが、かすみさん。仲裁してくれるんだ──と輝かせた瞳は、次の言葉で曇った。
「お湯、台所にあると思うから、それを口実にすればいいと思うわ」
「…………」
 要するに、行くしかないらしい。
 はあ……。
 肩を落として廊下を歩きながら、乱馬は考えた。どういった声かけをしながら入ればいいだろうか。

 よ! 何作ってんだよあかね。

 いや違う。そんな期待するような言い方は駄目だ。知りたいのは別にメニューではないのだから。
 知りたくないわけではないけれど、どうせ何を作っていたとしても「食べられる味」じゃないのだから、聞いたところで同じだった。
 ではどうするべきか。

 おい、なんでいきなり料理なんて作ってんだよ。

 違う、駄目だ。そんな喧嘩腰ではあかねに殴られる。いっそ蹴り飛ばされた方が、自然に外へと脱出できていいかもしれない。そうして猫飯店にでも行けば、ご飯ぐらい食べられるだろう。
 がしかし、そうなると今度は家に帰りにくくなる。家族の冷ややかな態度が安易に想像できて、恐い。

 くそう、どーしろってんだよ。

 イライラしながらも台所へ辿り着き、ええい、ままよ──と開けようとした戸だったが、手をかけた瞬間なにかが背中を走り抜け、乱馬は踏みとどまった。
 なんだ、この嫌な予感は。
 わずかに開いた隙間から、何かの香りが漂ってきた。
 香り。
 否、匂い。
 判別の付かない、正体不明の匂いがした。
 ぐつぐつと液体の沸く音、まな板に当たる包丁の音、カチャカチャと金属の音。それに、あかねの声が時折混じる。曰く、「まあいいか」とか、「要は味付けよ」といった、いつものポジティブ発言だ。
 ごくり。
 息を呑む。
 決して、食欲の唾ではない。

「なんの匂いかしら……」

 不思議そうな声が背後から聞こえ、ぎょっと振り返るとそこには三人と一頭がいた。
 一体いつの間に──。
 この家族はたまに、いとも簡単に空気と同化して、己の死角を取る。
 なんでいるんだよ、だったら最初っから皆で来ればいいじゃねえか、という乱馬の無言の主張は、「おまえが遅いからだ」という父の文字によって一蹴された。

「ねえおねーちゃん、何作るつもりだったの?」
「頂いたお野菜が沢山あるから、野菜炒めにでも、って思ってたんだけど……」
「うぬう、野菜炒めという匂いではないな」
「パッフォ」
「甘いのか辛いのかもわからない匂いだわ」
「一緒にお吸い物を作るつもりで、それはもう鍋にかけてあったんだけど──」
 かすみの言葉を聞き、乱馬はその細い隙間から中を伺った。コンロのある位置は、ここからでは見ることは叶わないようで、あかねの背が右から左へと動き回っていることだけは確認出来た。

「お吸い物って匂いでもないわよ、これ」
「そうねぇ、何の匂いかしら」
「乱馬くん、中の様子はどうかね」
「この隙間からじゃよく見えねーよ」
「だから中に入って確認してきなさいって」
「そういうなびきが行けばいーだろ」
「冗談じゃないわ、こういうのはあんたの役目よ」
「やっかいごとばっかり押し付けやがってっ」

「こんな所に固まって何をしておるのだ、お主ら」

 擦り付け合いをしている最中、ひょいと振られた声は、「おじいさん」であり「じじい」であり、「お師匠様」だった。珍しいことに背中に風呂敷包みを抱えていない彼は、その小柄な身体でひょいとパンダの頭に着地して、問うた。
「今日のご飯はなにかのう」
「それは──」
 かすみの声を遮るように、すかさずなびきがのたもうた。
「おじいさん、せっかくだから味見してきてよ。力作なんだからー」
「おかずはなにかと訊いておるに」
「それはあかねに訊いてください」
 早雲が右手で師匠の頭を鷲掴みにする。
「あかねちゃんの手作りとな」
「よかったなー、じじい。一番乗りだぜ」
「わしは急ぎの用が──」
「まあまあお師匠様。そう遠慮なさらずに」
「せっかく帰ってきたんだから、飯ぐらい喰ってけよ」
「食べないと力が出ませんぞー」
「貴様ら、わしを殺す気かー」
「なびき、台所の戸を開けなさい」
 父親に言われ、なびきが腰を上げる。
 が、そこから彼女は動かなかった。
 伸ばした手は、空で止まる。
「どうした、なび──」

 ボン。

 言い終わる前に、小さな爆音が聞こえた。
 あーとか、うーとか、そんなうめき声も聞こえる。ぷすぷすと流れ出る黒煙と、漂っている焦げ臭い匂いと、やたら甘い匂い。芳しいとは程遠い、粘着性のある匂いに鼻が痛くなった。

 ガラガラガラガラ。
 ドン。
 バキ。

 台所からは騒音が止まない。
 ほんの数歩先のこの部屋で、一体何が行われているのだろうか。
 全員の顔に冷や汗が流れる。

 誰も動けなかった。
 後に引くことも、前に向かうこともせず。
 ただ、その場に固められたように止まっているだけだ。
 齢何百年とも謳われる妖怪じじいですら、動くことは叶わなかった。

 ガチャーン。
 ガガガガガガガ。
 チャリーン。
 カッカッカッカッカッカッカ。

 ドン。



 扉を開ける勇気のある人物は居なかった。
 ほんの少し手を伸ばせば届くその扉の向こうには、一体何が待っているのだろう。
 天国か地獄か。



 お薬、まだあったかしら……。



 ぽそり、かすみが呟いた。







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@天道家
らぶ、天道家大好き!
──そのわりに、いつものお約束のネタで、オチもありませんが。。。
いいんだい、じじい含めた「家族の会話」が書きたかっただけなんだいっ(逃亡)