天と地と 第九章
第九章 距離
乱馬のことを考えると胸が熱くなる。
ドキドキして、嬉しいような、恥ずかしいような、そんな気持ちでいっぱいになる。
「今日はこれで終わりにしようか」
「はい、ありがとうございました。東風先生」
「あかねちゃんは優秀だねえ」
「そんなこと──、先生の教えがいいんですよ」
「おやおや、そんなに褒めても宿題の免除はないよ」
「なんだ、残念」
冗談っぽく口を尖らせてみせて、そして笑った。
ここは城の書庫管理室。
東風から勉強を教わるときは、いつもこの部屋と決めている。自室だと、なんだか身が入らないような気分になってしまうと思ったあかねが指定したのが始まりだった。
書庫の隣にあるこの管理室は、くつろぎという言葉には縁遠い内装で、飾り気のない大きな机がひとつと、応接用のソファーテーブルが一組。背の高い本棚が二つあり、分厚い本がいくつかささっている。
せめてもの明るさと称してか、窓辺には真っ白なカーテンがかけられているけれど、常に開けられているためにカーテンの用途をなしてはいない。天井が高いので、窓からの光の方が、よほど役に立つのだ。
「あかねちゃん、最近はすごくいい顔してるよね」
「……いい、顔、ですか?」
「そう、なんていうかな……。そう、綺麗になった」
「やだ、先生ったら、褒めてもなんにもないですよ」
気恥ずかしそうに苦笑するあかねを見て、東風は再び言った。
「以前まではちょっと固いところがあったように思うんだけど、すごく雰囲気が柔らかくなったよ」
「……そうでしょうか?」
そう返しながら、あかね自身も東風の言葉はあながち間違ってはいない──綺麗かどうかは別として──とは思っている。窮屈に感じていた自分の心には、ゆとりが出来たというのだろうか。「光明心」のことにしたって、以前ほど重苦しさは持っていない。
それが「欠落者」にとって大事な力であることはわかっているし、そう思うと責任という重しを感じ入るけれど、どうしていいのかわからずに沈んでいた頃より、胸の中は軽い。
受け止めることと、受け入れること。
母が言っていたこの言葉の違いが、なんとなくわかるようになってきた。
あかねはあかね。
力がどうであるとか、立場がどうであるとか、付随する全てはまず「あかね」という一個人の後についてくるものなのだ。それをどう使っていくのか、それはあかねが決めること。大きな力が人を救うのも傷つけるのも、力を揮う人の裁量次第であること。
父や姉たちが民に好かれている本当の理由が、ようやくわかってきたように思う。
「やっぱり、あの話は本当だったんだね」
「──え? あの話って……」
「あの四人の中から、あかねちゃんの相手が決まったって話」
「……は? な、なによ、それ」
「……違うのかい? あかねちゃんが綺麗になったのも、てっきり好きな人が出来たんだとばっかり──」
「好きな、人?」
舌に言葉を乗せた瞬間、頭の中に一人の顔が浮かぶ。
カッと頬が熱くなるのがわかったが、東風はそれを怒りのせいと取ったらしく、宥めるように言葉をかけた。
「まあまあ、落ち着いて」
「一体、どこからそんな話が出てくるんですかっ」
「城内の噂話だよ。それに僕自身は──」
「誰から聞いたんですか?」
「いや、なびき姫から聞いたんだよね」
「なびきお姉さまから!?」
そうと聞くやいなや、あかねは広げたままの本と紙の束を集めて抱えた。
「すみません、先生。失礼します」
声を置き去りにするように、あかねは踵を返し、走り去る。
「──まずかった、かな」
その様子を唖然と見送りながら、東風はぽつりと呟いた。
「どういうことよ!」
いきなり力任せに扉を開けたられたかと思えば、怒声が飛び込んできた。
なびきは多少驚きながらも、その様子をおくびにも出さず、腰掛けた椅子を回転させて振り向いた。
「どういうって、なんの話かしら?」
「とぼけないで!」
頭に血が昇りやすい妹の性格には慣れている姉であるから、やれやれといった風に肩をすくめると、あかねを室内へと促した。
殺風景というか、シンプルというのか。なびきの部屋には、華美な飾りが排除されている。私室というよりは「執務室」といった風合いすら感じさせるのは、この姫の性格故であろうか。それでいて決して地味というわけではない。設置されている家具の類は、それぞれに国の名工が手がけた一点ものである。所々に掘り込まれている装飾が、その価値の高さを物語っている。さりげないところに見える絢爛さというのが、彼女のスタイルなのである。
「で、どうしたの、あかね?」
「どうしたもこうしたもないわよ。東風先生に一体なにを言ったのよ!」
「東風先生に?」
言われ、つけていた帳簿から顔を上げる。ペン先を揺らし、しばし考える様子を見せて、あかねを振り向く。
「意外におしゃべりね、あの先生」
「そういう問題じゃないわよ。あることないこと、勝手に変な話作らないで!」
「変な話って?」
「だから、あたしが、誰かと結婚するとか、そういう話よ」
「別におかしな話ってわけでもないんじゃない? 少なくとも、周りはみんなそう思ってるわ」
「そ、そんなの──」
「おまけに最近のあかねってば、随分明るくなったって、城内のみんなが言ってるわよ。そうなると必然的に、そういう話が出てくるってものじゃない」
問題解決、とばかりにそう微笑むと、再び机上へ向かう。
その姉の背中に、あかねはなんと言い返してよいものやら、口の中で言葉を転がせる。冷静で物事を分析してしまうこの姉に対して、言葉でなにかをいっても無駄であることは、よくわかってはいるけれど、この問題ばかりは引き下がるわけにもいかないと、そう思った。
「とにかく、全然そんなことないんだから、これ以上言いふらすの、やめてよね」
「あたしが言わなかったとしても、同じことよ。大臣たちなんて、もう乗り気なんだから」
「──そ、そんな、勝手に……」
「儀式のこともあるし、それなりの準備ってもんが必要になるでしょう?」
「儀式って……、だって、それはまだ――!」
彼女の持つという「光明心」
今のあかねは、それを「宿している」というだけの状態にすぎない。
本当にそれを受け継ぐには、天の意志を受け、彼女自身がそれを受け入れなければならない。
具体的にどういったことが「天」から下されるのか――。
それは、誰も知らない。
なぜなら、それは当人しか知らないからであり、その当人も決して口外しようとはしなかったからだ。
はるか昔より、それは当たり前の「儀式」として、今の世にまで続けられている。なにが行われているかがわからなくとも、結果「光明心」は国を潤してきた。
国にとって、それこそが大事なのだ。
敢えて秘密を探ろうとする者も少ない。それは天の機密だ。
だから、あかね自身も「儀式」だのと言われても、一体なにをどうすればいいのか、わかってはいなかった。ただ、決められている「儀式」に従い、塔に篭り、天へ祈りを捧げる。そうすれば、天が応える――らしい。
そういった程度の認識でしかなかった。
その「儀式」とて、まだ先の話だと言っていたし、具体的な日時が決定したなどとは聞いてすらいない。
(……そんなの、勝手だわ……)
事が終わってしまえば、自分はきっと自由の身ではなくなってしまうだろう。
今までのように、行動できなくなってしまうに違いない。
今までのように、気軽に町へも降りることができなくなる。
今までのように、もう、
乱馬にも会えなくなるかもしれない――
「そんなに嫌なら、ちゃんと言えばいいんじゃないの?」
「言うって、なにをよ」
「好きな人がいるって話」
「え……?」
姉のあっさりとした返答に、あかねは間の抜けた声を出した。なびきがこちらを振り返り、見透かしたように笑う。
「あたしを誰だと思ってるのよ、あかね。あんたがしょっちゅう町に下りてること、知ってんだから」
「そ、それは、だって、町に行くのも大事だって──、お父様だって……」
「そうね、それは間違ってはないとあたしも思うわよ。でも、あんたの場合の目的は他にあるって気もするけど?」
「な、なによ、それ!」
「町を見るっていうなら、もっと周りを観察することね。あんた、あたしが見てたことにも気づいてないんでしょう」
「見てたって……」
「一人じゃなかったわよね、いつも同じ子だったんじゃないのかしら?」
「────っ」
その言葉に、あかねの頬は朱に染まっていく。
相変わらず嘘が下手だと、なびきは苦笑する。
そしてその素直な反応の奥にあるであろう心を思うと、わずかに胸が痛んだ。
あまり言いたくはなかった。だから噂をばらまいたといえるかもしれない。
婚礼を周囲から固めてしまえば、あかねとて自分の身のことは承知しているはずだから、時間はかかったとしても、承知するのではないか。
そう思って、本人にはなるべく知れぬように水面下で操作していたというのに、こんなすぐにバレとは思っていなかった。けれど、かえってそれでもよかったのかもしれない。
なびきは深く息をつくと、机の上に重ねてあった書類の束を一枚取る。
あかねの方はといえば、姉の言葉に対し、胸がこれ以上ないほど高鳴っているのを自覚していた。
たしかになびきが一番、町へ降りているだろう。しかしまさか、目撃されていたとは思わなかった。おまけに――
(…………乱馬)
顔を思い出して、ますます顔が熱くなる。
ここのところ、あまり会っていない。あかね自身も東風の授業があったりと城を空ける時間が少なかったし、乱馬の方も、家の方で用事があるらしいことを洩らしていた。
しばらくは来れねえかもしれねーけど──と、別れたのは、半月は前だったろうか。乱馬のことを考えては、顔が見たいとそう思う自分の気持ちに、戸惑いつつも、それでもふわふわとした気分にもなる。
そんな毎日を過ごしていた。
なびきの言葉で、また乱馬のことを思い出し、胸の中が熱くなる。そんな時、再び姉の声がした。
「会わない方がいい」
「え……?」
「その方が、あんたのためよ」
「……なに、言ってるの? 別にあいつは、ただの知り合いで──」
なびきは持っていた一枚の紙を手渡す。
なにかの報告書のようだ。かっちりとした文字が、びっしりと綴られている。すべてを読まずに、目線だけで流し読んでいくと、どうやらなにかと物騒な「土の町」についてであることがわかった。
天へ逆らうために徒党を組み、荒っぽいことも辞さない集団がいくつか群れを作り、一団を形成するようにまでなっているらしい。そして近く、天へ反旗を翻す。
そんな噂は耳にしている。
その抗争と、あかねと、一体なにが関係しているというのだろう。
町は物騒だから、もう行くな──と、そういう意味なのだろうか。
「早乙女乱馬」
「……早乙女?」
不審そうに眉根を寄せるあかねであったが、走らせていた紙面の一部分で挙動が停止した。
主要グループの一員として報告されている幾人かの名と顔が記載されている。
そこにある一人の姿絵は、あかねのよく知っている人物の顔だった。
集団の長・早乙女玄馬。その息子、乱馬──
「土蜘蛛よ」
姉の声が、遠くで聞こえた。
<< 目次へ