蜂蜜たっぷりのトーストで −5−
蜂蜜たっぷりのトーストで
<5>
望んでいたことは、会話をすることじゃない。
姿を見ることでもなければ、並んで歩くことでもきっとない。
それよりも何よりも、ただひとつ一番自分が欲していたのは、彼の声。
乱馬が「あかね」と、自分を呼ぶ声が、本当はずっと聞きたかったんだと自覚したのは、奇妙に長く思えた夏休みが明けた朝のこと。
「乱馬くんて、冷たいわねー。出てったきりで音沙汰なしだなんて」
「いいじゃない。静かだし、家も壊れないし」
「……壊してるのは、あんたじゃないの?」
あかねが答えると、なびきは呆れた声と視線を寄こした。それに気づかないふりをして前を向いたまま歩き続けていると、やがて、ややわざとらしさを感じる口調でこう続ける。
「あかねのこと、どーでもいいのね〜」
最初の「冷たいわね」は、なびき自身も感じている、彼女の心からの気持ちだったように思える。
普段から、いい金づるだとか、からかい甲斐があって面白いとか、おもちゃのように扱っていることも多いなびきだけれど、そんな姉にしたって、ずっと一緒に暮らしてきた乱馬のことは、きっと家族同然のように思っているはずだ。逆に言えば、家族だからこそ、あんな風な扱いが出来るのだろう。
そんな言葉に対しても虚勢で受けてしまう自分を、姉は不甲斐なく思い、
「あ、あたしだって別にねー!」
きっとこうしてまた裏返しで答えてしまうことを予想しながら、わざとああいう言い方をする。
数日前、洗濯物を届けさせて、そこで仲直りさせるつもりの段取りを、自らの手でぶち壊してきたことを、実は根に持っているんだろうか? 充分に在りうる話だった。
怒ってみても仕方ない。自覚していることだけれど、どうしても素直にはなれないのだ。
意地張ったって、いいことなんてひとつもないわよ――と、いつだったか隣にいる姉に言われたことがある。ほっといてよ! と、珍しく心配そうな忠告に対してですら、拒絶する自分の性格が、あかねはほとほと嫌になる。
けれど、そんな風にはねつけてしまうのは、すべて乱馬のせいだ。
乱馬が絡むと、いつも自分はそうなる。
乱馬が悪いんだから、と自分を正当化しようとする。
第三者に言わせれば、「どっちもどっちだ」という喧嘩であるが、双方が双方ともに「相手が悪い」と主張するものだから、始末に終えない。これで話がすんなり解決するわけがないのだ。
あんた達の仲もこれまでね、と他人事のように言うなびきの言葉に反発。
自分自身の中に渦巻く色々な感情と言葉。
それで手いっぱいだったけれど、ふと「あかね」と。誰かの声が耳に刺さった。
通学路。久しぶりに会った友人たちの会話がそこかしこから聞こえる中でも、その声はあかねの耳に――、そのもっと深いところにまで届いた。
久しぶりに聞いた、乱馬の声だった。
それだけで踊りだしそうなくらい嬉しくなる自分は、なんて現金なんだろう。
喧嘩したことも、仲直りしそびれたことも。
ずっとずっと心を重くしていた全てのことが、どうでもいいような気になった。
だって、乱馬が名前を呼んだのだ。
自分に話しかけようとしたのだ。
怒っていたとしたら、そんなことはきっとしない。
乱馬も寂しかったんだ。あたしがずっと思い悩んでいたように、乱馬だって同じ気持ちだったんだ。
あかねの思考は、やや自分の都合のいいように走り始める。
もう仲直りしたも同然だと思っていたから、自分を避ける乱馬に対して失望し、さっきまでとは逆の方向に気持ちは針は振れた。
仲直りする気なんてないんだ。
天道家を出たことだって、本当にたいしたことじゃないって思ってるんだ。
おねえちゃんの言うとおり、あたしのことなんて、どうでもいいって、そう思ってるんだ――と。
右往左往する心。
いい加減疲れると思いながら、だけどやっぱり気持ちは止まらない。
焦れば焦るほど空回りをするし、上手くいかない時は何をどうしたって上手くはいかない。
自分と乱馬は、いつもそうだと思う。
わかっているのならば、それなりの考え方をすればいいところなのに、そうできないところもまた、自分と乱馬らしいんだろう。
「なんで素直にさっさと渡さないのよ」
「仕方ねーだろ、邪魔がいっぱい入ったんだから」
ようやっと受け取ったプレゼントを手の中で転がしながら問いかける。
憮然と答える声はいつも通りで、その「いつも」に我知らず頬が緩んだ。けれど、それに気づかれるのがなんだか悔しくて、あかねはそっけなく聞こえる口調で言葉を返す。
「邪魔邪魔っていうけど、じゃあどうして朝教室で渡してくれなかったのよ」
「んなこと出来るわけねーだろ」
「どうしてよ」
「どうしてって――」
本当にわかっていないのか、わかっていてわざと言っているのか。あかねの表情からは読み取れない。
教室であんな物を渡そうものなら、必要以上に騒がれるのは目に見えているというのに。
事前に中身がわかっていて、本当によかった――と、乱馬は心から思う。
が、わかっていなかったとしたら、開けた途端居たたまれない空気にさらされる羽目になっただろうから、どちらが良かったのかの判断はかなり微妙だ。
そもそも、これは指輪などではなかったのだから。
「んなことより、おふくろにちゃーんと礼言っとけよな」
「あんたに言われなくたって、わかってるわよ。大体、あんたがすんなり渡してれば、昼間会った時にお礼言えてたんだから。あんたの方こそ、おばさまにどうしてすぐに渡さなかったのか、説明しなさいよね」
「冗談じゃねえや。また刀持ち出されるのはごめんだぜ」
「またって……、また女装でもしてたわけ?」
「女装じゃねえっつってんだろ」
「そうよねー、れっきとした女の子だもんねー、乱子ちゃんは」
嫌味たっぷりにあかねが言って、乱馬は、どうしてくれようこの女、とそう思う。
思いながらも、こうしてまたいつものように軽口を叩けることが嬉しく思うし、叩ける距離に居られる今が幸せだとも思う。
いつまでもずっと、このままで居られたらいいのに――と、心から思う。
この後、自分とあかねは別々の家に帰るのだ。
もう学校でしか会えないと、唇を噛んで言ったのはあかねだ。
何を神妙なことを――とその時は思ったけれど、仲直りをした今、それはとてつもなく大きな壁だということに気がついた。
邪魔をするヤツは蹴散らすし、障害があれば壊して進む。
だが、世の中にはどうにもならないこともある。腕力だけでは解決しえないことは、たくさんあるのだ、と。
力なく考えていた乱馬の目に映ったのは、倒壊した家屋と、その中から使えそうな荷物をより分けている母親の姿。
神様というのは、意地悪なのか、そうでもないのか。
神なんてたいして信じていない早乙女乱馬も、この時ばかりは考えを改めた。
*
今朝の食卓は、奇しくも洋食。
早乙女親子が出て行った朝と同じで、あかねは苦笑した。
これはわざとなのだろうか?
出て行った朝と、こうして帰ってきた最初の朝が、同じメニューだなんて。
焼いたトーストと、スクランブルエッグにソーセージ。和風ドレッシングを合わせたサラダボールが机の真ん中に鎮座している。
今度は6枚切りじゃ足りない人数で、大きなちゃぶ台を家族で囲む。
自分の隣には、幾度喧嘩したところで変わりばえのしない許婚が、当たり前の顔をして座っている。
心なしか嬉しそうな父親、「母親」の存在をきっと誰よりも嬉しく思っているはずの姉・かすみ。何気ない顔をしているけれど、内心では嬉しく楽しく思っているであろう、姉・なびき。そして、玄馬とのどかがいる生活。
今までと同じようで、少しだけ違う生活。
新しい生活もいつかきっと、当たり前の日常になっていくはずだ。
平穏で単調な生活とは無縁だろうけれど、変わらない絆はもうここにちゃんとある気がした。
「ごめんなさい、おばさま。朝食の準備、手伝ってもらっちゃって」
「何言ってるの、かすみちゃん。これからお世話になるんですもの。作るのはおばさんで、かすみちゃんに手伝ってもらうのよ」
和やかな会話に、あかねも嬉しくなって参加する。
「おばさま。じゃあ、晩御飯はあたしがお手伝いする!」
「冗談じゃねえ。うちに帰って早々、あかねの作ったメシなんて喰えるかよ」
「なんですってー!?」
他人の不幸は蜜の味だけど。
自分の幸福も蜜の味だと思う。
蜂蜜をたっぷり塗ったトーストを、顔の真ん中、ストライクにぶつけてやる。
大きく振りかぶって、
大きく口を開けて。
思いっきり叫んでやろう。
大好きの代わりに。
あんたなんて大嫌いって。
今の自分の気持ちを、蜜の味に変えてぶつけてやる。
それが、今の精一杯。
変わらないでいられる、なによりの証。
ということで、「こんにゃくゆ」の話でした(笑)
家族愛が好きです。たぶん、恋人同士の恋愛模様より、家族の温かさの方が、私はずっと好きです。
幼馴染カップルが好きなのは、家族同然の付き合いをしている仲だから、だと最近になって自覚しました(苦笑)
【2006/09】