HOT LIMIT
HOT LIMIT
影が濃い。
落ちる影は短くて、俯いていると頭がますます重く感じた。
「……暑い」
死ぬ──と、地獄の底から這いずり出てきたような声で呟いて、今一度顔を上げる。
途端、ぐらり、と、視界が揺れた。
揺らめいているのは陽炎のせいなのか、飽和状態の頭のせいなのか。判別はつかなかったけれど、そんなことはどうだっていい。原因なんて問題じゃない。暑さでどうにかなりそうな事実は、それこそ揺るがないのだから。
近くのコンビニの扉が開いて、ノースリーブのシャツが目にも眩しい少女が、こちらも暑そうに歩いて行く。一瞬だけ感じた、店内から流れ出る冷房の涼やかな空気に思わず立ち止まったけれど、あのひんやりとした感覚は魔法のように霧散する。
はあ……。
恨めしげに店内を睨むけれど、その瞳に力はない。
いつも、無駄に強気だとひそかに囁かれている早乙女乱馬にしては、珍しく消沈した様子だった。
背には重たそうな荷物。猫背の体勢が、さらにそれを重たそうな印象に変えているけれど、中身はいつもと大差はない。今の季節、寝る時には毛布の必要もないわけだから、リュックの中身は着替えや必要最低限の薬やらといった程度の物で、かさばれどすれど重量的にはそう大きいわけではないはずなのだ。
つまり、重いのは心と身体。
裏腹に軽いのは、腹と懐。
「……腹減った……」
つまりは、そういうことだ。
暑さのせいでさらに苛立つはつのる。
その怒りの矛先は言うまでもなく、無計画な修行に連れ出してくれた父親・玄馬に対するものである。
色々とあまり思い出したくはない日々を過ごして、最後の食料を巡って争ったのは果たして昨日のことだったか、それとも一昨日だっただろうか? すでに日付の感覚が危うい。
鉛のように重い身体を引きずってなんとか下山したのはいいけれど、なにせお金がない。なけなしのお金は玄馬が持って逃走している。己に残されたのは、わずかな小銭のみ。父に言わせれば、「10円、大金じゃ!」とのことだろうが、今時10円ぽっちで何が出来るだろう。消費税の足しにしかならない金額だ。
それでも「帰巣本能」というものが働くのだろうか。
呆然としながらも向いた方角は、己の目指すべき方向で。浮浪者さながら歩きつづけた結果、なんとか視界は、見慣れたいつもの景色へと流れた。
近くでよかった。
丸一日歩いた距離でも、「近い」と思える自分が、ちょっと幸せだと乱馬は思った。
精神的に、かなりヤバイ。
コンビニの前で立ち往生している乱馬に、ゴミの片づけに出てきた店員が不審な目を向ける。
泥だらけで、顔も手足も薄汚れた少年が、物欲しそうな目で見ているのだ。
これで妖しくないわけがない。
警察に連絡した方がいいんだろうか?
いきなり襲いかかってきて、ゴミ箱をあさって弁当の残飯とか探したらどうしよう、とか。
店員はドキドキと考えながらも、ゴミ箱から袋を取り出し再セットする。明らかな家庭用ゴミが捨てられていることに対して、今日は怒りも湧いてこない。背後の浮浪少年に比べれば、命の危険はないじゃないか。
フニャー。
と、猫の声がした。
本当はいけないことだけれど、よく売れ残った弁当の鮭をあげたりする、常連のブチ(名前)だった。
「悪いな、ブチ。今日は何もないんだよ」
「……ニャー」
「別に他のヤツにやったってわけじゃないんだぜ」
「……ニャ〜」
「まあ、そう言うなよ。今度は奮発して肉にするからさ」
「……ニャー」
と、声を潜めて店員は言う。
「……な、ブチ。なんか妖しい奴がいるんだよ、ちょっと行って様子見てきてくれよ」
「ニャ」
ヤダよ、と。
いつもは間のあるブチの返事は、間髪いれず即答だった。心なしか声にも棘がある。
怒ったわけではないと思うけれど、その声を最後にブチは去った。しっぽがゆらり、ゆらり。時折払うようにぱしっと揺れるのは怒っている証拠かもしれない。
アパートに一人暮らし故にペットは飼えないけれど猫が好き、な店員は、「嫌われたかな」と落ち込んだ後、そんな事態に陥らせた得体の知れない妖しい浮浪少年に怒りを感じ始める。
畜生。もう来てくれなくなったらどうしてくれんだよ。
睨んで追い払ってやろうと振り返ってみると、そこにはもう彼の姿は存在しなかった。
なんだったんだろう。
まるで夢のような、幽霊のような。
ジジジジジ……
どこかで鳴いた蝉が勢いよく羽を広げ飛び去って、木の葉が揺れる音がした。
*
どんな時でも恐怖というものは感じるのだろうか。
恐怖というものは、あまりにも高まると、時としてそれを突き抜けて、怒りに転じてしまうものであるが、アレについてはどうやら例外らしい。
フラフラで歩くのもやっとだったはずなのに、たった一声。ニャーという、あの声を聞いただけで、乱馬は脱兎のごとく逃走していた。もはや本能に近い、おそるべき反射神経と状況把握能力である。
彼の猫への恐怖心は、食欲よりも高いらしい。
ひたすらその場から離れた後、ほっと一息ついたのがまずかったのか。さらに空腹になってきた。
乱馬は思う。
今なら、あかねの飯だって美味しく召し上がれるかもしれない──と。
かなりの危険思想である。
夏休みまっさかりの昼、元気な小学生の集団とすれ違う。彼らの持っていたペットボトルやらアイスクリームの棒やらに目を奪われる高校生の姿は、傍から見るとかなり危ない。事実、「しっ、見ちゃダメよ」と母親に窘められた幼児が、引きずられるようにして曲がり角へ消えたところだ。
水飲みてぇ。
なんなら頭からかぶってもいい。
女の姿になれるって、実はすごく幸せなことじゃないだろうか。
だってつまり、それだけたくさんの「水」がある証拠なのだから。
だんだんと思考がずれ始めていることに、彼は気づかない。
それぐらいに、彼は飢えていた。
もはや、食べたいのか飲みたいのかもよくわからない。
いや、もしくは寝たいのか。
(もう、なんだっていいや……)
力が抜けて空を仰いだ瞳を、太陽が焼く。
視界が白くなったと同時に、彼の意識も白く染まった。
* *
ボーンボーンボーンと、柱時計が鳴る音を無意識に数えて、なんでー三時かよ、と思う。
蝉の声が喧しいけれど、時折風が髪を、頬を、腕をなでるのが心地いい。チリンと鳴る風鈴の音が耳にも涼しい。
あれだけ白く暑くゆらいでいた世界が、今は影を成しているのが不思議だったけれど、それを不審に思うよりも気持ちいいと感じる心の方が遥かに強く。そしてなによりも、考えることに疲れていた。まだ寝ていたい。
なんだっていい、どうだっていい。
そういえば、そんな風に考えたような気がした。
僅かに首を傾けると、目の前に白いもの。同時に額に生温かい空気を感じた。
どうやら自分は、濡れタオルを額にして寝ていたらしい。
「乱馬、気がついた?」
「──あか、ね?」
声が聞こえて、それを合図とするように思考が動きはじめる。
知覚触覚が正常に働き始め、ここが見慣れた天道家の居間であることを認識した。
「なんでおれ、うちで寝てるんだ?」
「なんでじゃないわよ、大変だったんだから」
どうやら自分は道のど真ん中で倒れていたらしい。まるで死体の如く。
ご近所の皆様が対処に困っていたところ、神様のようにうってつけの人物が通りかかった。その名も、町の骨接屋さん。小乃東風若先生。
行き倒れといった様子からなんとなく事情を想像したのかどうか定かではないが、東風は自分の医院ではなく、直接天道家に乱馬を連れてやって来て、「もしもなにかあったら、おいでね」と言い置いて帰ったという。
乱馬くんなら、たぶん大丈夫だと思うけど。
そんな風に言ったらしい東風に、信用されているのか、それとも体力だけはあると半ば笑われているのか、どうにも微妙だと乱馬は思う。
あかねが差し出した、ほんの少しぬるくなった水を急がないようにゆっくりと飲む。
大地に水が染み込むように、枯れていた身体に水が行き渡るのを感じた。血は身体中を巡っているのだということを、今改めて実感したような気すらした。
あっという間に空にあったグラスに、何も言わなくてもあかねが水を足す。その作業を五回ほど繰り返した後、起き上がっているのが億劫になった乱馬は、再び仰向けに寝転がる。すると太陽の光がちょうど差し込んできて、当たらないようにほんの少し場所を移動した。
ごろごろと体勢を考える乱馬の上からは、あかねの声が降ってくる。
「炎天下、水分も取らずに歩き続けるなんて、どうかしてるわよ」
あんたバカじゃないの?
体調管理ぐらい、ちゃんとしなさいよね。
声に怒気はなく、心配しているというよりは、どちらかというと安堵したといった色が見えた。
目が覚めて声を発したことで安心したのか、あかねの文句はさらに続く。
いつまで経っても帰ってこないと思ったらなんなのよ。
きちんと連絡ぐらいよこしなさいよね。
何日、音信不通だったと思ってるのよ。
(ちぇ。もっと他の言い方できねーのかよ)
同じ立場になれば、自分だってきっと同じような言い回し──いや、もっと突き放したような言い方しか出来ないであろうことを棚に上げて、早乙女乱馬は毒づく。
かわいくねーの。
半ば拗ねてごろりと転がると、また陽光が当たって眩しさに目を閉じる。
まったく、大人しく寝ることもできねーのかよ。
再び転がって体勢を変えると、落ち着かない自分に腹を立てたのか、あかねの声に怒気が混じった。
「ちょっと乱馬、聞いてるの!」
こちらを覗きこんできた間近にあるあかねの顔に、今度は別の意味で目が眩んだ、ある夏の午後。
おはなし書いたの、何ヶ月ぶりだろう?
サイト上では、ひょっとしたら軽〜く一年ぐらい経ってるのかも(笑――いごっちゃねえよ)
タイトルは、ええ皆さん思ったとおり、TMレボレボからー。
暑さの限界臨界点突破ーということで、直接歌の内容には関係ないです。
【2006.08.09】