ふわり。


     ふわり。




 銭湯に行った。
 また風呂釜が壊れたから。
 誰のせいだとは敢えて言わないけれど、こうちょくちょく壊れる家なんて、うちくらいなものよね。






(まったくお風呂くらいおとなしく入れないのかしらね……)

 隣の男湯から聞こえる騒がしい声に、あかねはただただ呆れる。
 八宝斎の声、そして女の乱馬の声。
 うるさい。
 その喧騒にも、常連客などは「ああまたか」ぐらいに構えているところから、この騒ぎが決して初めてではないことが伺えるというものだ。
 破壊音とともに、八宝斎の声が遠ざかる。加えて乱馬の偉そうな、ふんぞり返ったような声。
 どうやら一応の決着はついたようだった。
 あかねは安心して湯船からあがり、そして髪を洗い始めた。




 髪を洗う時。
 時折思い出す。
 かつての長さ──腰に届くまであった頃の長い髪のこと。
 女らしくなるには髪を伸ばしてみるだなんて、随分と短絡的だと今は思う。けれど、小学校の頃の自分にしてみれば、それは揺ぎない証だった。
 首筋の毛先がやがて肩につき、胸の辺りに達する──そんな過程に喜び、期待していた。
 憧れと現実との間にふらふら揺れていたあの頃を思い返すのは、なんだかこそばゆい。
 今ならわかる。
 形にこだわるあまり、大事なことを抜かしていたこと。
 変えることと、変わることとは、同じようでいて、全然違うこと。
 髪が伸びれば変わるんじゃなくて、
 伸びる速度に合わせて、自分も変わっていかなければ、何の意味もないんだということ。
 そんな簡単な、当たり前のことにも気がつかずにいたなんて、
 まったく子供だと言われても仕方がない。
 思い出して、あかねは小さく笑う。
 髪の短さに伴って使うシャンプーの量は減り、
 そして張り詰めていた気力も減った。
 短くなって頭は軽くなり、気持ちも軽くなった。
 簡単なこと。
 溜めこまずに洗い流すことで、人の心は随分と変わるのだ。
(もっとも、あいつの場合は吐き出しすぎって気もするけどね)
 壁の向こうを思って、あかねは髪の泡を洗い流した。




 見たいテレビがあるから──となびきは先に帰ってしまったし、かすみも一緒に帰ってしまっている。
 だからというわけでもなかったが、ついつい長湯してしまい、外に出た頃にはもう暗くなっていた。
 ついさっきまであった光はあっという間に闇に変わっている。
「真っ暗……」
 ついぽつりと言葉が漏れた。
「いつまで入ってんだよ」
 横からかけられた声に驚いて振り向く。
 首にタオルをかけ、洗面器を片手に乱馬が立っていた。まだ乾ききっていない髪が重そうに垂れている。
「なにしてんのよ」
 ひょっとして待ってたわけ? と訊ねると、いつものむすっとした顔でそっぽを向いた。
「しょーがねーだろ、おじさんに頼まれたんだから」
 頼まれたというところを妙に強調して言い切り、背中を向ける。数歩進んだところであかねがついてきていないことに気づくと、振り返って一言。
「帰るぞ」
「うん」



「ちゃんと拭きなさいよ」
「めんどくせー」
「そんな頭でずっといたら風邪ひいちゃうわよ?」
「おめーが出てくんのがおせーからだろーが」
 タオルで無造作にわしゃわしゃと頭を掻きむしるだけの乱馬。跳ねてくる飛沫がひどく冷たい。
 ついこの間までは寝苦しい夜を過ごしていたはずなのに、あの蒸すような感覚は消え失せている。
 ぴりりとくる、凛とした空気。
 張り詰めたような空気。
 思わず身震いしたくなる。
「おめーこそ出たばっかのくせにもう冷えたのかよ」
「そうじゃないけど、涼しくなったなーって思って」
「あちーよりいいじゃねえか」
「でも、なんか寂しくならない?」
「そーか?」
「似合わないって言いたいんでしょ」
「んなこと言ってねーじゃねーか」
「顔に書いてる!」
「じゃー、そーなんだろ」
 意地悪そうに笑う。
 ふんと顔を背けた。
 乱馬に聞いた自分がばかだったと思った。
 萌える緑がだんだんと枯れていき、葉を落としていく様子に感傷なんて、きっと乱馬は持ちやしないだろう。
 風がざわっと枝葉を揺らした。
 髪の間を冷たい空気が通り抜けていく。
 首筋がすこし寒い。
 髪が長かった頃と一番違うのはそこ。夏場は嬉しいけど、冬場はちょっとツライ。
 それでももうあんな風に髪を伸ばすこともないんだろうと思う。
 なにかに願いをこめて伸ばすことは、きっとないだろう。
 短い髪は、自分自身も気に入っているから。
 でももうほんの少しだけなら伸ばしてもいいかなと思う。
 あのバレッタが飾れる程度には、保っていたい。

「早く帰らねーと、風呂入った意味なくなっちまうぞ」
「そうだね。ねえ乱馬」
「あ?」
「帰ったらなんか温かいもの飲もうよ」


 季節はもう、秋。














髪→洗い髪→神田川
そんなわけで銭湯です(笑)
どっかで聞いたようなタイトルですが、
「色んな意味で軽くなった」そんな意味をこめて。

【2003.09.19】