邪悪の鬼、再び 後編
後編 邪悪と笑み
「はい、早く座って」
「……いーよ、別に」
「よくないわよ、いーからさっさとしなさい」
肩を押さえつけるようにして座らされ、乱馬は仕方なく腰を落ち着けた。
その隣では、あかねが薬箱から絆創膏と消毒液を取り出している。
「もう、そんな傷だらけなのに、ほったらかしにしておけないでしょ」
その傷をつけたのは他ならぬあかねなのであるが、犯人は素知らぬ顔である。鼻歌なぞを歌いながら、消毒液を乱馬の腕に振りかける。もう好きにしてくれ──とばかりに横を向く乱馬であったが、次の瞬間飛び上がった。
「いってぇ!」
「なによ、情けないわね」
「お、おまえな、なにしやがんでい」
あかねの手にある小瓶には、「味塩」と記されている。
「ちょっと間違えただけでしょう?」
「どこがちょっとだー!」
「男のくせに細かいこと言わないでよ」
「だああ」
傷口を思いっきりタオルで擦られて、悲鳴をあげる。
手当てという名の暴力は、包帯をミイラのようにぐるぐる巻きにすることでフィニッシュを迎えた。
「はい、おしまい」
にっこり笑顔。
鬼のくせに、愛らしい笑顔。
いつもならば、こんな風に笑いかけてくることなど、ないに等しい。それなのに、一体どうしてこんなにも素直なのだろうか。
(実はなんか企んでんじゃねーだろうな……)
そうは思いつつも、その笑顔についつい動揺してしまうのが、この男が「優柔不断だ」と称される故だろう。
立ち上がると、あかねは薬箱を居間の隅に置き、縁側から敷石の下に置いてあるサンダルを引っ掛けて、庭へと出た。隅に備え付けてある水道からホースを伸ばし、水を撒き始める。
青い空から降り注ぐ陽射しに、水が煌めく。
短い丈のスカートから伸びる細い足が、さらに目に眩しい。
このまま、何事もなければいいのに。それ以前に、鬼の存在さえなければもっといいのに。
そうぼやきたくなるような光景だ。
びしゅ──
「…………」
放水を浴びせられ、少女と化した早乙女乱馬は、ぼたぼたと水滴を垂らしながら、そんなことを思った。
*
「乱馬、お湯沸いたわよ」
と同時に熱湯が降り注ぎ、飛び上がった。
開け放した戸から入ってきた蝿を追いまわし、蝿叩きでさんざんはたかれた。
部屋の掃除をするんだと掃きだした箒で、ゴミとともに庭に放り出された。
風呂に入れと言われて行くと、水風呂だった。
水風呂に突き飛ばされて、さらに蓋を閉められて、あやうく溺死するところだった。
なんとか生還して、廊下にへたり込んでいると、髪を拭くと称して首を締められ、窒息するかと思った。
その度に「あんた一人でなに怒ってんの?」という顔で、あかねが不審げな顔をする。
無意識にやっているぶん、なんと性質の悪い「意地悪」だろうか。
(早くなんとかしねーと、明日までに死んでしまう……)
ともかく、封印だ。
あの鬼が納まる大きさならば、もうこの際なんだっていい。
だが、まず封印の札だ。
東風の持参したものがなくなってしまった今、もう一枚しか残っていない。
そう。すなわち、元からあった札──あかねが持っているはずの封印札である。
あかねは、なにやらあわただしく、ばたばたと家の中を歩き回っている。乱馬は忍び足で洗面所へ向かった。
あかねは手合わせのあと、風呂に入った。
今着ている服は、その前までとは違うもの──つまり、着替える前の服の、例えばポケットかなにか。そこに封印札を入れたままにしているのではないだろうか──
そう考えたのだ。
そろそろと近づき、キョロキョロと警戒しながら、戸をあけた。
誰もいないことはわかっているけれど、それでも用心しつつ、乱馬は洗濯かごを覗く。バスタオルの下に、見覚えのある色の生地が見えた。あかねが着用していたスカートだ。
それに手を伸ばす少年の姿は、それはもう激烈に妖しかった。
ただのスケベな変態である。
「おう、乱馬。おまえのあかねちゃんの下着が欲しいのか?」
「てめーと一緒にすんなー!!」
突然湧いて出た八宝斎を蹴り飛ばし、荒い息をついていると、その音を聞きつけたのか、あかねが顔を出した。
「誰かいるの? 乱馬?」
ところが、そこは無人。そして、自分の脱いだ服が床に落ちているのを見て、顔をしかめた。
「……またおじいちゃんね。もう、どーしてやろうかしら」
怒気のこもった声で独白すると、手にしていた服を水を張ってある洗濯機へと入れ、出て行った。
その後で、すたっと姿を現したのは、とっさに天井に身を潜めていた乱馬。
乱馬はしゃがみこみ、そしてあかねが服を取り上げた際に落とした、一枚の紙切れを手にする。「豆」の字を確かめた後、そっとそれを懐に忍ばせた。
*
札は手に入れた。
あとは、そう。封印するだけだ。
乱馬は、封印する箱を求めて、家中を探っていた。押入れ、天袋、天井裏、縁の下、畳の裏、ありとあらゆる箇所を捜索し、最後に納戸へ向かった。
ここはいつ来ても蒸し暑い。
以前、一度整理を頼まれたことがあったが、結局たいした整頓もしないままになっていることを、ふと思い出す。なにが入れてあるのかわからない箱が、たくさん積み上げられている。この中になら、木箱のひとつやふたつ、あるような気がした。
「乱馬、なにしてるの?」
背後から声がかかり振り向くと、あかね。
「なに探してるのよ」
「──たいしたもんじゃ……」
「あたしも手伝う」
「いや、いい」
「どうしてよ」
「いや、その──」
言葉を探し、やがてとってつけたような口調で続けた。
「ほら、なんかおまえ、忙しそうだし」
「そんなことないわよ、もう終わったし」
そう言うと、あかねはさっさと中へとやって来て、乱馬の隣に立ち、聳え立つ荷を見上げた。
「ほんと、ちっとも片付かないのよね、ここって」
腕まくりをし、何を探すのかを聞かないままに、目の前にあった物を無造作に引き抜いた。
途端、バランスを崩した荷が、そのまま傾いて倒れこんでくる。
箱とか、封印とか、鬼とか、札とか、豆とか、
それまで頭を支配していた単語の数々。
それは、瞬時に消える。
そして代わりに浮かび上がるのは、
あかね
危ないとか、危険だとか、痛いとか、
あかねが平気なのであれば、己の身がどうであろうと、そんなことは些細なことだと思った。
庇おうとした手は、空を切る。
何事もなかったかのように、あかねは別の場所へ移動した。
たたらを踏んだ足。
その上から、おびたただしい荷が、どかどかと降ってきて、乱馬はその山に埋もれた。あかねが振り返り「で、なに探してるの?」と真顔で問いかけてくるのを、痙攣しながら耳にした。
(……こ、このアマ)
自分がどうであれ構わないと思っていたにも関わらず、こうまであっけなくあしらわれると、腹が立つ。
せっかく助けてやったのに──
と、まあ、実際には助けるより前に避難されて、自分の一人相撲であったわけであるが、もう我慢の限界だと思った。
「くぉら、あかね!」
「なに?」
振り返った額に、びしぃとお札を貼り付けた。それと同時に、あかねの頭上からはすぽーんと鬼が弾き出される。
きょとんとした、あかねの顔。
乱馬は、とっさに散らばった荷の中で右手に触れた箱を振りかざし、鬼の進路を塞ぐ。余った左手であかねの額から封印札を剥ぎ取る。
「邪鬼、封印っ!」
蓋をすると同時にぺたりと札を表に貼り付けた。
「……乱馬?」
あかねの声がした。
おそるおそる振り返る。
いつもと同じ顔。
あかねの顔。
もうそこに、角はなかった。
「あんた、なにしてんの?」
「なにって、おまえな……」
取り憑かれていた間のことは、どうやら覚えてはいないらしい。
鬼が憑いていただなんて、あまり気持ちのいい話ではないけれど、さんざんコケにされたことを思うと、なんとも口惜しい気分であった。
鬼退治でい──と、それだけ憮然と呟き、納戸を後にした。
居間の机。
紐で厳重に縛り上げた古びた箱を横目に、乱馬は机に突っ伏してへたり込んでいた。
これを解いたりしないかぎり、もう大丈夫だろう。
やっと落ち着ける。
父親が帰ってきたら、稽古と称して、袋叩きにしてやろう──と、決意を固めていた乱馬だが、足音を耳にして顔を上げ、そして蒼白になった。
あかねがなにかを持っている。
あれはなんだろう。
わからない。
わからないけれど、お皿に盛っているからには「食べ物」なのかもしれない。
「──なんだ、それ……」
「なにって、昼ご飯よ。昨日、言ってたじゃない。食べたいって」
「……昨日?」
昨晩、居間で見ていたテレビを見ながら、そういえば、そんな会話をしたような気がする。
だが、あれはたしか「カレーライス」だったような気がするのだが──
「お腹空いたでしょ? さあ、どうぞ」
にっこり笑顔。
今まで妙に素直で笑顔だったのは、このせいだったのだと、今になって理解した。
慌しく、ぱたぱたと行動していたのは、調理をしていたからだったのだ。
機嫌がいい時の八割が「調理時」であるということを、失念していた。
瞳に映るは、あかねの顔。
鬼であった時に浮かべていた愛らしい笑顔と、なんら変わらないぐらいの笑み。
頭に角はないけれど、それは地獄への案内人の笑顔に見えた。
邪悪の鬼はもう居ない。
悪の衝動はもう起きない。
けれど、早乙女乱馬の災難は、
むしろ今からが佳境だった。
初めてのキリ番リクエスト小説。「邪悪の鬼(あかね編)」です。
と、いうことで、いいネタを振っていただいたおかげで、こんな話が出来上がりました。
久しぶりに、らんまっぽい話が書けて、楽しかったです。
鬼があかねに取り憑く。
あかねにとっての「邪悪行動」って、なんだろう?
そこがどうも想像できなくて、悩みまくったわけですが、なんか今ひとつ「小悪魔」っぽくないですね。それがリクエストのメインだったのに(笑