心の鏡 side:Akane


     心の鏡 side:Akane




 乱馬と喧嘩した。
 いつものこと。
 そんなのたいしたことじゃないはずなのに、妙に気が重い。
 きっかけはこう。
 その日あたしは、仕舞いっぱなしになっていた編み物を久しぶりに取り出した。
 あまりにも不恰好で毛糸がボロボロになっちゃってるしで、いっそこれを練習用にしてまた新しい毛糸を買おう。そう思って編んでいた分を解いていたところに、乱馬が突然やってきたんだ。
 あわてて隠した。
 こんなの見たら、きっとまたからかってくるにきまってるんだから。
 隙を付かれて取り上げられたそれを見た乱馬の顔に「不器用なくせに」って書いてある。

「返してよ、ばかっ」

 ひったくるようにして奪い返す。
 すると案の定、
「まあおめーみてーな不器用な女は今ぐれーからやり始めねーと間に合わねーよな」
「なによ、その言い方!」
「なんでい、ほんとのことじゃねーか」

 ふんと思いっきり顔を背けて、あたしは再び解き始めた。
 そうしたら、また呆れたようにこう言った。

「んなよれよれの毛糸使ったってしょーがねーだろ。ただでさえ不器用なのに、そんなんじゃ出来上がりは目も当てられねーぜ」
「うるさいわね、あんたに関係ないでしょっ!」

 すると心外そうな顔をした。
「誰もあんたにあげるなんて言ってないでしょ! これはPちゃんにあげるんだからっ」
 帰ってきていたPちゃんを抱き上げて、あたしは思わずそう言った。
 けれど、言った後でそれも悪くない考えに思えた。
 この糸でPちゃんに作って、そしてそれが上手くできたら。
 そうしたら、新しい毛糸を買おう。そして、それを乱馬にあげればいい。
 そう決めたらものすごく楽しくなってきた。
 ぎゅっとPちゃんを抱きしめる。
 腕の中で動くPちゃんがかわいい。
 久しぶりだから余計に嬉しい。
 今日は抱いて寝よう──とそう思っていた時、ずかずかと近づいてきた乱馬がPちゃんを取り上げた。
「ちょっと、なにすんのよ」
 乱馬の手で暴れるPちゃんがその手に噛み付いたらしく、乱馬が怒って手を振った。
「痛ぇーじゃねーか、この豚っ!」

 勢いのまま床を転がり、あたしの足元にまできてそこで止まる。
 Pちゃんを抱き上げて、あたしは乱馬を睨みつけた。
 せっかく帰ってきたのに、どうしていつもいつもPちゃんにばっかり当たりちらすんだろう。

「Pちゃんいじめないでよ。豚にヤキモチなんて、ばっかみたい」
「だ、誰がおめーなんかに」
「ふーんだ」

 仕返しのつもりでそう言ってやった。
 さっきの思いつきで頭がいっぱいで、乱馬の態度もいつもほど気にならなかった。
 出来上がった時、その時の乱馬のことを想像するだけで、顔が笑った。
 だけど、その気持ちは乱馬の言葉で凍りついた。

「けっ。んなぼろっちいもん喜んでつけるの、その豚ぐれーなもんだろっ」








 わかってる。
 不器用なのは、自分でよくわかってる。

 編み物だって、本に載っているみたいに上手くなんか出来ないと思うけど、それでもちゃんと作って、それを作り上げることが出来たのなら。
 そしたらヘタくそだのなんだのと言いながら、きっと乱馬はもらってくれるだろう──
 そう思っていた。
 だけど、そうじゃないのかもしれない。
 不恰好でもいいからあげたいというのは、あたしの勝手な思い込み──独りよがりでしかないのかもしれない。
 あたしの自己満足で、あたしの気持ちの押しつけにすぎないのかもしれない。


 弾んでいた気持ちは一気に沈んでいった。
 それでもこびりついた最後の意地であたしは乱馬を精一杯睨みつけ、思いっきり蹴り飛ばした。
 あれから二日、乱馬とまともに顔を合わせていない。
 合わせてないというより、合わせられないという方が正しい。
 顔を見たら最後、もっと決定的なことを言われるんじゃないかと思うと恐くてたまらない。
 ベットに投げ出してる解きかけたままのマフラーのなりそこない。
 見ているだけでつらくなって、あたしはそれをくちゃくちゃに丸めてクローゼットの中に放りこんだ。
 もうやめよう。
 きっと無駄なんだ。
 あの時の乱馬の言葉が何度も何度も、繰り返し頭に再生される。
 頭の中の乱馬は不快そうな顔をしてあたしに言う。


 いらねえ
 誰が欲しがるかよ
 豚にでもやりゃーいいだろ


 違う。
 本当にあげようと思っていたのは乱馬にだ。
 だけどそれは言えない。
 誤解は解きたいけど、その後で拒絶されるのが恐い。
 机に向かい、悶々とする思考に頭を抱えていた時、なびきおねえちゃんが入ってきた。
 ベットに腰掛けて、問いかける。

「あかね、なにがあったのよ」
「別に、なんでもないの」
「おとーさん、心配してるわよ」
「それでおねえちゃんが偵察にきたの?」
「偵察とは失礼ね。頼まれたから──」
「いくらもらったのよ」

 なびきおねえちゃんに限って、タダで動くなんて考えられない。
 だけど、それには肩をすくめて答えて、再び言った。
「で、どうなのよ。どーせ乱馬くんがまたなんか無神経なことでも言ったんでしょ」
 成長がないわよねーと、呆れたように呟いた。
「──別に乱馬がどうとか、それは関係ないの。あたしの問題だから……」
 きっかけはそうだったかもしれない。
 だけど、別に乱馬に怒ってるわけじゃない。
 腹を立てているとしたら、それはあたし自身にだ。
 自分が自分でイヤになってる。どうしようもないくらいにイヤになってる。
 それだけだ。
 あたしが何も言わないのを見てとると、なびきおねえちゃんはひとつ息を吐いて立ち上がった。あたしの肩をぽんと叩き、珍しく穏やかな声で言った。
「なんでもいいけど、元気出しなさいよねあかね」

 これ以上、おとうさん達に心配かけちゃいけないよね……
 顔でも洗ってこよう。
 あたしはお風呂場に向かった。
 洗面台から流れる水を手ですくい、顔を洗う。
 頭を上げると、濡れたままの顔が映ってる。
 情けない顔。
 もしも心を映す鏡があったとしたら、今のあたしの心はめちゃくちゃだろう。
 乱馬に腹を立てて、自分に嫌悪して、
 悪いのはあたしなのに、乱馬に八つ当たりしてる。
 最低だ。
 ああ、あたしの身勝手な気持ちぜんぶ、水と一緒に流れてしまえばいいのに……
 イヤな心、ぜんぶすっかりなくなれば、こんなに悩まなくて済むのかな?
 そうしたら、もう少しかわいい女の子になれるのかな?
 そうすれば、乱馬だって──

 はあ……
 虚しくなって、大きく息をついて、あたしはその場を後にした。
 廊下を歩いていると、かすみおねえちゃんに呼び止められた。
 納戸の虫干しをしたいから、中を少し片付けて欲しい。そう言われた。
 それどころじゃないくらい気は重かったけど、そうやって落ち込んでいたって仕方ないし、あたしは気分転換のつもりで引き受けた。




 納戸は締め切っていたために埃が溜まって、おまけに蒸し風呂みたいに暑い。
 物を積みすぎていて、上の方なんてなにが置いているのかもよくわからない。危ういバランスで積んでるから、今にも落ちてきそう。
 少し薄暗い納戸の中で、ひとまずあたしは手近にある物から整理を始めた。
 小さい頃に遊んだおもちゃとか、昔の雑誌なんかがあちこちに置いてある。
「どうしろっていうのよ……」
 その時、外で声が聞こえた。
 おとうさん?

「んな見張らなくても別に逃げねえよ!」

 声と共に勢いよく扉が引かれ、乱馬が飛び込んできた。どうやら後ろから押されたらしい。すぐに向き直ったけど、もう戸は閉められた後だった。乱馬は片足を上げて、蹴破ろうとしている。
 どうしよう……
 声かけた方がいいのかな……
 その時、乱馬が振り返って、目が合った。
 驚いたような顔をして、バランスを崩してこけた。

「乱馬……?」
「おめー、こんなトコでなにやってんだよ」
「あ、あんたこそ」
「おれはおやじとおじさんに……」
「あたしはかすみおねえちゃんに納戸の掃除を頼まれて……」

 そこまで言って、会話が途切れた。
 なにを言えばいいのか、わからない。
 あたしは普段、一体乱馬となにを話していたんだろう?
 考えれば考えるほど、わからなくなってきた。
 自然、俯く形になる。
 今を逃したら、もう乱馬と向き合うことなんて出来ないかもしれない。
 謝りたい。
 目も合わさず逃げ回っていたのは、乱馬が悪いんじゃない。あたしが勝手に逃げてただけだってこと。
 本当は乱馬にあげたくて編み物を始めたこと。
 きっかけの言葉を探して、あたしの頭は混乱していた。

「あ、あの、さ……」
「──な、なに?」

 乱馬の声が小さく聞こえて、どきりとする。
 何を言われるのかがやっぱり恐くて、声が上ずった。
 刹那、空気が動いた。
 顔を上げる。
 乱馬がいた。
 見開いた目の端に、落下したダンボールが映る。乱馬の肩口に一度ぶつかって、地面に落ちた。
 ひょっとして、庇ってくれたの……かな?
 喧嘩したままで、口も聞いてなくて、顔だってまともに合わせてなかったのに、それでもあたしのこと助けてくれたんだ。

「あかね、大丈夫か?」
「うん……」

 すぐ近くで声がした。
 すぐ近くに顔がある。
 響いてくる乱馬の声に、ドキドキした。
 あんなにも恐がっていたのに、へんな感じだ。


「──ごめん」

 少しの逡巡の後、乱馬がぽつりと呟いた。

「ううん、あたしも、ごめんね、乱馬」


 するりと言葉が出た。
 なにをどう言おうかとか、そんなこと頭から消えていた。
 こうして乱馬がいて、それだけもうどうでもいいと思った。
 見上げた乱馬の顔がなんだか眩しく見えて、あたしの頬が緩んだ。
 笑ったのなんて、何日ぶりだろう?

 「あ、あかね……」
 乱馬がなにかを言いかけた時だ。
 ぎしりっと軋む音が聞こえ、ばたーんと戸が中に倒れ、そしておそらく耳をつけていたであろう体勢のままで、おとうさんとおじさまとなびきおねえちゃんが雪崩れこんできた。
 戸口では一人かすみおねえちゃんがなびきおねえちゃんを助け起こそうとしている。
 なんにしたって、みんながこの場にいたことは間違いはない。
 おとうさん達の仕業ね
 こうやっておびき出して、仲直りさせようと画策したんだ。きっと。

「おとーさんが悪いのよ」
「だって早乙女くんが押すから〜」
「それはないんじゃないのかい、天道くん」

 責任逃れを始める家族を尻目に、あたしと乱馬はその場に固まったままだった。









 今日も乱馬と喧嘩した。
 いつものこと。

「乱馬のばかー!」 
「あにしやがる、この凶暴女」

 左の頬に放った平手打ち。
 かわいくねえ。
 乱馬の顔にそう書いてある。
 でも、それでも、まあいいや。
 その乱馬はといえば、やけに嬉しそうに笑ってる。

「なに、にやにやしてんのよ気持ち悪いわね」
「なんでもねえよ」
「へんな乱馬」

 視線の先ではPちゃんがあたしの作ったマフラーをまいて、嬉しそうに座っていた。



















言葉の受け取り方によって、誤解と勘違いとすれ違いに発展するのが乱馬とあかねの泥沼喧嘩。
乱馬版を思いついた時、これのあかね視点を書けば、その噛み合わない言葉と気持ちのすれ違いぶりが出せるかしら?と思って、こうなりました。

【2003.08.08】