影法師


     影法師





 その日、天道あかねは一人歩いていた。
 もう夕刻に向かう時間。それでも太陽はまだ辺りを昼の時間に留めており、照りつける陽射しは半袖の肌を刺す。買ったばかりの真っ白な帽子が覆い隠す顔は、あまり楽しげとも言いがたい表情だ。
 特別に用事があったというわけではなかった。
 ただの散歩だ。
 それなのに慌しい周りときたら、平穏さを与えてはくれないのだ。
(なによ、バカ)
 口癖のように呟いてみては、小さく息をつく。
 きっかけはシャンプーだった。


 いつものように、自転車でごりゅんと乱馬を踏みつけにしたかと思うと、デートに誘う。
 その返答を聞くより前に、ぽんと手を叩くと出前の配達へと向かった。今日は本当に急いでいたらしい。それでも声をかけていくあたりはもはや条件反射のようなものであろう。
 「再見」の言葉が消え去るのと同時に「ここにおっただかー」とあかねの腰に絡みつくムースを足蹴にする。眼鏡を掛けた後に「なんじゃ、天道あかねか」と真顔で呟くムースを乱馬が殴り、それが元で諍いが始まった。
「おのれ早乙女乱馬、勝負じゃ」
 こうなると他の何よりも勝負を優先させるのがこの男で、ムースと共に屋根に消える。
 その姿をしばらくは追いかけていたあかねであるが、ばかばかしくなって途中で足を止めた。

(なんであたしが乱馬の後を追わないといけないのよ)

 そう、いつものことなんだから気にしたって始まらない。いつだって乱馬は勝手なんだ。
 この散歩にしたって、乱馬が勝手に付いてきただけなんだし。
 姿を求めるのに夢中で、いつの間にか知らない場所へと誘われていたことに気がついた。
 来た道を戻るよりも前へ進むことを選択したあかねは、しばらく道なりに歩いた後、川沿いの道に出た。
 いつも通学する道沿いの川が途中で枝分かれした後、一体どこに続いていくのか思っていたけれど、もしかしたらこの川がそうなのかもしれない、そう思って川に沿って歩き始めた。
 無意識のうちにフェンスの横を歩いていることに気づく。
 当たり前のように地面に自分以外の影を捜していることにも気づいては、少しむっとする。
 反抗するようにして、道の反対側に寄った。
 こちらは住宅街。
 塀の向こうから伸びる木が僅かに影を落としていて、その影の部分だけを踏みながら歩く。途中で途切れ日向となった距離を飛び越えて、影踏みをしながら歩く。
 アスファルトの影と、靴の爪先。
 水たまりがぽつんぽつんと、昨日の雨の名残を残している。
 途切れた塀の向こうから、ふと生暖かい風が目深に被った帽子を飛ばした。
 慌てて伸ばした指先をかすめて、もう一度吹き込んだ風が帽子をさらい、さらに空へ舞う。

 川に落ちちゃう。

 追いかけようと足を踏み出したすぐ脇を、別の風が走り抜けた。
 太陽が作る影。
 あかねの影に重なるように生まれた影は、長く伸ばした腕で帽子のつばを掴み、道と川とを隔てるフェンスの上で止まった。
「こんなとこでなにしてんだよ」
「関係ないでしょ」
「なんだよ、かわいく──」
 ねえの言葉尻とともに、大きく傾いだ二枚のフェンスが川の向こうに落ちていく。剥がれおちた「乗るな注意。外れます」の貼り紙が、その後を追うようにひらひらと舞う。
「大丈夫?」
「ちくしょう」
 覗きこんだ下では、憮然とした顔をした少女が悪態をついている。
 高く掲げた右手の先には白い帽子。落下の余韻でレースのリボンがまだ揺れている。
 軽く跳躍して上がってきた後に、それはあかねの頭にぽそりと収まった。






「つくづくついてねえ」
「先に帰ればいいじゃない」
 横でぶつぶつと呟きつづける乱馬に、呆れたように声を掛ける。
 だぽだぽと音をたてる靴は踏みしめるたびに水を弾きだしていて、その歩きにくさに脱いだはいいが、今度は手で持ったそこから水滴を垂らす。
 川の水を吸ったズボンから滴り落ちる水と相まって、まるで川のように地面に跡を残していくけれど、昼の熱を保っているアスファルトの放射熱が、瞬く間にその軌跡を薄くしていく。

「ムースは?」
「なんでおれがムースなんぞに負けなきゃなんねえんだよ」
「なに怒ってんのよ」
「怒ってねえ」

 薄くなった影が長く伸びる道。
 ひょこひょこと動くおさげと、歩調に揺れるリボンの影が形を変える。
 夕暮れに向かう薄紅の空の下、ほんの少し泥の跳ねた白いレースがふわりと風に舞った。










【2003.07】