呪いのかんざし
 

     呪いのかんざし





 

    1.呪いの刻印



 軒を連ねる提灯の明かり、お囃子の音。
 屋台から流れる匂い、人の波、ざわめき。
 ごみごみとしたそんな一見乱雑な雰囲気でさえ、胸を躍らせる要因となる。
 それが祭りだ。
 近くの神社で催されているお祭り。
 見慣れた場所も違って見えるし、なによりも浴衣を着て歩くことで普段とは違った気持ちになるものだ。
 あかねとて例外ではなく、少しばかり浮き立つ気持ちで夜店を覗く。
 高いからちょっとまけてよ、と交渉に余念のないなびきを横目に、あかねはあかねで射的にチャレンジ。
 しかし的とは全然違う方向に飛んで行く弾、弾、弾。
 いつの間にか側に来たなびきが「あんたもういいかげんにあきらめたら?」と溜息まじりに声をかけた。
「だって、欲しいんだもんあれ」
「あんたには無理よ」
「でも──」
「だったら乱馬くんに頼んでとってもらえば?」
「なんで乱馬なんかに頼まなきゃいけないのよ!」
 ついさきほど「ヘタくそ」と笑われたことを思い出して、口を尖らせる。
 そんな態度もなびきは「はいはい」と受け流し、そういえばと辺りを見回した。
「その乱馬くんはどこ行ったの?」
「知らない。どーせどっかで騒いでるんでしょ」



「待ちやがれ、このくそおやじー」
 どすどすと重い身体を意外なほどに軽い身のこなしで人込みをゆくパンダを、少年が追いかける。
 パンダの手にはたこ焼きのトレーがあり、もう片方の手には器用なことに爪楊枝。
「てめー、人のもん横取りしやがって!」
 高く跳躍し、勢いよくパンダの後頭部に蹴りをいれる。倒れるパンダからすっとたこ焼きを取り戻し、乱れもなく着地した。何事もなかったかのように歩き出した背後から、起き上がったパンダがプラカードで殴打する。
[返せ]
「おれが買ったんだ」
[喰わせろ]
「やなこった」
[ケチ]
「うるせえ」
[あ、ネコだ]
「なにっ!?」
[隙あり]
 とっさに反応した愚か者の息子から再びたこ焼きを強奪し、父はまたも逃げる。
「ああー! くそ、待ておやじ!」



 屋台の喧騒から少しばかり離れた場所の小さな小屋。
 はあはあと荒い息をつきながら、なにかを握り締めている男が一人。
 キョロキョロと辺りを見渡してはまたも手元に目を落とす、これでかれこれ数十分経過している。
「ふう、きっとここなら安心よ」
 小さな木箱を掲げて、男は笑みを浮かべた。
 その時だった。

 どかーん

 破壊音とともにパンダが乱入してきた。その後を追うようにおさげ髪の少年。パンダを踏みつけにし、なにやら威張っている。そのパンダがむくりと起き上がり、少年と喧嘩を始めた。
 暴れまわる一人と一頭。
 小さな小屋はあっという間にめちゃくちゃだ。

「いいかげんにしやがれ!」

 ばきいと少年がパンダを蹴り飛ばす。憐れ、小屋の屋根は大きな穴を開けた。
 ひゅるるると落下してきた物を右手で受け止めた乱馬を見て、小屋にいた男はひいいと大仰な態度で指差した。
「ああ、あなた、とても大変なことをしてくれた」
「んあ?」
「それよ!」
「それ?」
 右手を見た。
 たこ焼きのトレーではなかった。
 丁度同じくらいの大きさをしている古びた木箱を持っていた。封が破れている。
「なんでい、これ」
「中を見てみればわかるね」
 言われ、ぱかっと蓋を取る。
 女物のかんざしがあった。年代物なのか、随分と仰々しい細工で、古ぼけた印象がある。
「これがなんだよ」
 ひょいと手に持ち、目の前に持ってくる。
 どうということはない、ただのかんざしにしか見えなかったが、途端、男は後ずさりしたかと思うと、逃げ出そうとするではないか。その襟首を捕まえて、問いただそうとした時、かんざしが動いたような気がした。
「ひいいい、とてつもないことしてしまったよあなた」
「だからなんなんだ」
「これ、呪いのかんざし」
「呪いだ〜?」




 昔々ある所に、若い男女がおったそうな。
 男は気まぐれに買ったかんざしを女にプレゼントした。女は非常に喜んだけれど、男にとってその女はどうという存在でもなく、あっさり他の女性と結ばれてしまった。
 ああ、憐れなるはその女人。
 ああ、なんてことでしょう。恨めしや恨めしや──




「ということで、そのかんざしには女の怨念こもってるよ」
 おどろおどろしい口調で詰め寄ってきた男──骨董品屋の店主は、乱馬に告げた。
「そのかんざし持ってるかぎり、あなたは恨みを受ける身の上となる」
「なにが呪いだよ、ばかばかしい」
「信じない、あなたの勝手。けれどわからないかも知れないが、あなたにはもうすでに呪いの証が刻まれてるね!」
 びしぃと指差され、すっと手鏡が突き出された。
 訝しげに覗く。
 いつもと変わらない顔だ。角が生えたわけでもないし、目つきが変わったとも思わない。
 なんでい、なんにも変わってねえじゃねえか──と思った時、その完全なる証が明確になった。
 額──前髪を掻き分けて全開にした時、それはど真ん中にあった。


 『呪』


「なんと狂おしい呪い的印!」
「わかりやすいわっ」
 乱馬は、げいんと店主の頭を殴打した。






























 

 2.あなたを恨みます



 呪いはすでに発動していた。
 乱馬が手にしたかんざしは、吸い付いたように離れなかったのだ。

「どーゆーことでい」
「そのかんざしの呪いよ。とても恐ろしいね、決して離れないという怨念こもってる」
 ずずいと顔を突き出して、店主は語った。
「そのかんざしを目にした者、かんざしを持つ者を恨まずにはいられない。だからかんざしを封印していたのに、それあなたが解いてしまった」
「呪いを解くには?」
「もう一度封印する必要があるね。かんざしを封印しなければ呪いの証は消えないよ」
「どうやるんだ」
「封印はこの木箱にしまって、この紐で封じ込めるのだが──」
「だが?」
「ああ、大事な封印を解いてしまったあなたが、私はとても恨めしいよ。そんな恨めしいあなたを助けることなど出来ないねー」
 店主はムンクの叫びでそう語ると、木箱を握り締めたまま、全力疾走で消えていった。
 呆然と固まっていた乱馬であったが、ふと我に返り、追いかけ始めた。
「ま、待ちやがれっ」




「乱ちゃんやないか」
「うっちゃん……」
 店主を捜してる途中、声をかけられた。
 店を出しているらしい右京だった。
「お好み焼き、食べていかんか?」
 嬉しい誘いだ。ついさっきたこ焼きを玄馬に盗られたから余計だった。だがしかし、今はそれどころではないのだと思い出し、後ろ髪を引かれつつも手を振って辞退し、足を進めようとする。
「そんな、せっかくうちが心を込めて焼いたお好み焼きやのに……」
 ががーんとよろめく右京は、きっと乱馬を睨むと言った。
「恨めしい。うちの好意を無にするやなんて恨めしいで、乱ちゃんっ!」
「でえっ」
 右京の背負う特大のヘラがぶんと振られる。店はどうでもいいのか、鉄板を飛び越えて乱馬に向かって攻撃を開始した。
 呪いだ。
 慌てて逃げ出し、ようやく撒いたかと思った時、殺気を感じてその場を跳んだ。
 一秒前までいた地面に、どすどすっと幾つかの刃物が突き刺さる。括りつけられたロープの先には予想通り、ムースがいた。
 じゃらりと垂らした暗器を袖の中へと戻したムースが再び構える。
「おのれ早乙女乱馬、いつもいつもおらの攻撃を躱しおって。恨めしいぞ」
「おまえもかよ」
「でーい、大人しくおらにやられるだー!」
「けっ、冗談じゃねえや。今はおめーなんかに構ってる場合じゃねえんだよ!」
 後ろから飛んでくる武器を躱しながら逃げる。その前方に見知った顔があった。

「やあ、早乙女クン」

 クラスメートの五寸釘光が、いつもの気弱そうな声を出した。走ってくる乱馬を避けようとしたが、そのスピードについていけずに弾き飛ばされる。
「ひいい〜」
「悪い五寸釘、急いでるんだ」
「待つだ、乱馬ー」
 追い討ちをかけるようにムースに踏みつけられ、地面に沈む。
 買ったばかりの焼きそばは無残にも土にまみれた。
 ゆっくりと起き上がると、藁人形を手にしよたよたと走り出す。
「こんな風に踏みつけられるだなんて、早乙女の奴め恨めしい〜」




 人込みの中、ムースを撒くのは容易いことだった。
 やっと一息ついたかと思った時だ。
 ちらりと目の端に見えた姿。
 あかねだ。
 声をかけようかと思った時、すっと目の前に差し出される木刀――
「恨めしい」
「く、九能……」
「ぼくとあかねくんの交際の邪魔をする貴様が、恨めしいぞお」
「どわっ!」
 びしゅびしゅと突き出される木刀の軌跡を避ける。援護するかの如く舞う黒バラと黒いリボン──
「ああ、乱馬さま。つれないあなた様が今日はなんだか恨めしいですわ」
「邪魔をするな、変態の妹」
「まあお兄様、それは私の台詞ですわ」
 この間に逃げ出そうとした乱馬だが、行く手を遮るようにごすっと突き刺さったのはまたも見慣れた武器。
「あいやー、乱馬」
「シャンプー、危ねえじゃねえか」
「私の誘い無視してなにやてるか、とても恨めしいね」
 誘われた覚えはねえぞ──と返そうとした時、決着がついたのか九能と小太刀が攻撃を加えてくる。
「乱馬さまのお相手は私ですのに、ああ恨めしい」
「とにかく早乙女、恨めしいぞ」
「なんじゃそりゃあ」



 騒ぎはますます膨らんでいく。
 屋台をすり抜けるようにして逃げる乱馬の後を、各々が追う。

「恨めしい。恨めしいぞ、早乙女乱馬」
「早乙女クン、きみって奴は、なんて恨めしいんだ……」
「おらとシャンプーの仲を引き裂きおって〜」
「乱ちゃん、うちというものがありながら、恨めしいでー」
「ああなんということでしょう。恨めしいですわ乱馬様」
「乱馬、私、恨めしすぎてとても困てるね」
「やかましいっ」

 もはや、わけがわからなかった。
































 

 3.追ってくる者、追いかける者



 人込みを避け、離れた場所で天道かすみとなびき、あかねは休憩していた。
「あかね、結局取ったの?」
「うるさいなあ、おねえちゃんには関係ないじゃない」
「やっぱ駄目だったんだ」
「まだまだこれからよ!」
 あくまで諦めない妹を、なびきは呆れた顔で見る。
「おとうさん達、遅いわねえ」
「どっかでお酒飲んで暴れてるんじゃない?」
「あら?」
「ん?」
 かすみの疑問符に、二人も視線を向ける。
 奥まった木の下で、足元に落ちた箱を見つめてなにやら唸って悩んで頭を抱えている男がいた。





 冗談じゃねえ。
 なんとかあの店主を見つけて封印の箱とやらを手に入れないことには身体がもたない。
 追ってをなんとか撒いて、乱馬は屋台裏の大木の前で荒い息をつく。
 おそるおそる通りを見やる。
 連中の姿はないようだ。
 それでもそろりそろりと歩き出した乱馬に声がかかった。
「やあ、乱馬くん。あかねを知らないかね?」
「おじさん」
 振り向くと早雲と父の姿。
「あかねがどうかしたのかよ」
 人込みではぐれたのかと少し心配になった。
 ついさっき見かけたことを思い出す。まだあそこにいるのだろうか。
「それが──」
 なにかを言いかけた早雲がそこで止まった。じっと乱馬、その左手を──あのかんざしを見ているようだった。
「乱馬くん──」
「──いや、これはその……」
「乱馬くん、きみという男はあかねを放っておいてなんて恨めしいんだ」
「乱馬よ、父は情けなくも恨めしいぞ」
「でえぇ!」
 滂沱の涙を流しつつバシバシと背中を叩く早雲。やはり泣きながら拳を突き出してくる玄馬。
 なんでこうなるんだ!
 乱馬はまたも逃げ出した。人通りを避け、裏手に向かう。これ以上の恨みはごめんだった。
 逃げながらも周りを気にしていると、人影があった。ぎくりとしたが、よく見るとそれはかすみの姿。
「あら、乱馬くん」
 乱馬に気づいたかすみが笑って声をかけた。
 安心して近づく。
「かすみさん、あかねは?」
「あら、まだ会ってないのね」
 困ったわねえと、あまり困ってなさそうな声色で呟く。
 そうだ、と思った。
 このかんざしの呪いも、優しいかすみには通じないかもしれない。
 かすみさん、お願いが──と言いかけた背後からは別の声がした。
「あ〜ら、乱馬くん。大変そうね」
「なびき……」
 イヤな奴に見つかってしまったと思った。だが、次の言葉で表情は一気に明るくなる。
「呪いを解く方法、教えてあげましょうか」
「知ってんのかっ?」
「一万円」
「んな金持ってるわけねーだろっ!」
「いいのよ別に。一生恨まれてれば?」
「人の足元見やがって……」
「じゃあ七千円」
「高い、三千円」
「六千五百円」
「四千円っ」
「六千円」
「五千円っ」
 泣きそうになりながら告げた。
 なびきはそれを聞きむっとした顔をしていたが、しばし考えるとふうと肩をすくめた。
「ま、あかねに免じて今回はそれで手を打つか」
「なんだよ、それ」
「呪いのかんざしとやらを持ってたおじさん。あたし達、さっき会ったんだけど」
「どこに逃げやがったあのおやじ」
「あかねが追いかけていったのよ」
「──あかねが?」
「その人が封印の箱を持って逃げてしまって……」
「で、あかねが追いかけたの」

 それじゃあさっき見たあの姿はそれだったのだろうか?
 腕組みして考える。
 左手に握ったままのかんざしが邪魔だ。
 それを目にした二人の顔が変化した。
「それが呪いのかんざしなわけ?」
「おう」
「ふ……、かわいそうな乱馬くん」
 芝居がかった態度でなびきが泣く。
「あのおじさん曰く、かんざしは他者の手によってしか解放出来ないの。だけど……」
「だけど?」
「ごめんなさいね乱馬くん。外してあげたいけれどそれは出来ないのよ」
 かすみが微笑をうかべる。不審がる乱馬に続いてこう告げた。
「だってとっても恨めしいんですもの、乱馬くん。解放なんてしてあげられないわ」
「そ、そんなっ」

 他の誰かによってしかかんざしは離れない。けれどかんざしを見た者は皆自分に恨みを持つ。当然、言うことなど聞いてはくれないだろう。
 へなへなと腰がくだけそうになる。
 なにか他に方法はねえのか──と泣きたくなる。
 追い討ちをかけるかのように、なびきが手を伸ばした。
「ああ、なんて恨めしいのかしら乱馬くん。これはもう呪い価格の三万七千五百六十四円を払ってもらうしか術はないわっ」
「おまいはそれしかないのか!」

 事態はある意味で泥沼だった。
































 

 4.あなたの掌



 走る。
 周囲の人全てが敵のように思えて恐ろしい。
 皆に見つかってはまずいし、そしてなによりこのかんざしが誰かの目に入ったら、ますます被害は拡大するのだから溜まらない。
 知らず知らずのうちに握り締めていた左手だが、今度はそのまま固められてしまったかのように動かない。
 強張っているのとは違う──なにか強い力で押さえつけられてしまっているかのようだ。
 これも呪いのひとつの効果なのか。
 なびきとかすみの声が甦る。


 乱馬くん、世界はあなたの敵よ
 乱馬くん、みんながあなたを恨んでいるわ


(くそっ、絶対捜し出してやる、あのおやじ!)

 だが呪いはますます効果を増して襲い掛かる。
 通りすがりの人、すれ違ったカップル、足元を走る子供
 すべてが口々に恨みをぶつけ始めた。

「おう兄ちゃん。恨めしい面してやがるじゃねえか」
「なー、そこのお兄ちゃん。どいてよ邪魔だよ、恨めしいなぼく」
「河馬男さん、なんだかものすごく恨めしい人がいるわ」
「そうだね、山羊子さん」
「ひいいっ!」

 囲まれて袋叩きに合って、ほうほうのていで逃げ出す。
 このままじゃ殺される。
 乱馬は人気のない場所を求め走りつづけ、ついに神社の境内へと辿りついた。
 ひっそりと静まり返っている場所。
 祭りの喧騒が遠く聞こえるぐらいに穏やかな空間だった。
 仏閣だとか神仏殿だとか、普段あまり気にもしない言葉を改めて意識した。
 閉じられて開かない板戸にもたれて、縁の端で一息つく。
 人が少なくなるのを待つしかない。
 ただそうなるとあのおやじを見つけ出すことも難しくなってくる。
 悪循環だ。
 頭を抱えていた時、境内の砂利を踏む音が聞こえた。
 誰かが来た。
 ひいっと、身体をビクつかせた乱馬だったが、
「乱馬?」
「あ、あかね……」
 薄明かりの中に浮かび上がった姿はあかねだった。走りまわったせいか、僅かに髪が乱れている。
 まずい。
 とっさに左手を後ろに回した。
 かんざしを見れば呪いが発動する。それだけは避けたい。もううんざりだ。
「あのおじさんから封印の箱、貰ってきたわよ」
「ほんとか?」
 ちらりと視線を這わせた。胸に抱えるようにして持っているのは、そういえばあの古びた箱だった。
 助かった──と思いつつ、どうするべきか悩む。
 自分では離せないかんざし取ってもらおうにも、見れば呪いの「恨めしや」だ。
 あのかすみでさえ「駄目よ」で門前払いだったというのに、あかねが相手だとしたらば──
 飛んでくる手はパーかグーか。
 胸ぐらを掴んでの往復ビンタ
 蜂のように刺す、スクリューアッパー
 もしくはいきなり蹴り飛ばし。
 隙をついてなんとか箱だけでも──と唾を飲み考える乱馬をよそに、あかねは乱馬に近づいた。
「ほら、早くしなさいよ」
 そう言って腕を引く。間近で見るとあかねの後頭部、出がけに付けていた髪留めの一部が欠けていることに気付き、そちらに注意を取られ反応が遅れた。
 やべっと思った時にはもう、左の手はあかねの前に曝されていた。かんざしは未だ握られたままだ。
 青くなった。
 逃げよう──そうして身体を浮かそうとした時だ。

「これがそのかんざし?」

 かんざしを眺めたあかねは乱馬の手を両手で取り、握られた指を一本一本優しく引きはがす。
 強張っていた指が熱くなる。
 あかねが触れているせいなのか、止まっていた血が通いだしたせいなのか。
 あるいはその両方か。とにかく熱く痺れた指先は広がり、縫い止められたように動かなかったかんざしは、あかねの小さな手によってあっさりと持ち上がった。

「へ?」

 木箱の中にかんざしを寝かす。懐から出した紐でぐるぐる巻きにした後、何かが書かれ紙──呪符だろう──を貼り付けた。
 あまりにもあっさりと終わった解呪に呆気にとられた。
 己の左手を見る。
 握りしめていたために、掌が赤い。握って開いてを繰り返す。
 グーパー、グーパー
 何度やっても変わらない。
 そこにあった呪いのかんざしから解放されたのだ。
































 

 5.解放と介抱



 濡らしてきたハンカチを手にしたあかねが腰かけている。その前に胡座をかいて座り、頭を突き出すように猫背の体勢をとる。
 あかねも身を乗り出し額に手を伸ばし、書かれた『呪』の文字を擦って消していく。
 頭に添えるように僅かに触れているあかねの指先。意識せず、額に全神経を集中させる。
 ハンカチの汚れた側を返すために離れる合間が惜しいと思った。
 何度目かの合間に、乱馬は尋ねた。
「なんでおまえは──」
 呪いを受けなかったんだ? という問いかけを呑み込み、結局は別のことを口にした。
「おまえはおれに恨みはねーのかよ」
「え?」
 対してあかねは手を止め、虚をつかれた顔をした。

 恨み

(あたしが、乱馬を恨む?)

 かわいくねえ、ずん胴、不器用、凶暴
 いつもの暴言に加え、むすっとした不機嫌顔、バツが悪そうに視線を逸らす顔、ごまかすように笑う顔、困った顔
 いろんな顔が浮かんだ。
 はっきりしなくて、優柔不断を絵に書いたような乱馬。ムカついて腹をたてて、喧嘩して──
 それでもその感情と恨みという言葉は結びつかなかった。
 そんな風に考えたことすらなかった。
 意外なことを言われたような気がして、思考が停止した。
 ばちくりと目を開いたままのあかね。乱馬は乱馬で戸惑う。
 つまらないことを言ってしまったと少し後悔した。
 やがて、表情を変えず、ぽつりとあかねは呟いた。
「どうしてあたしが乱馬を恨むの?」
「へ?」
 あかねはわけがわからないといった顔だった。
 ごまかしている風でもなく、意地をはってるわけでもなく、怒っているわけでもない。
 ただ純粋に不思議に思っている──そんな顔だ。
「恨めしいとか思わねーのかよ」
「あんた、あたしに怨まれるよーなことしたんだ」
「してねえ」
「じゃあ恨むわけないじゃない」
 そう言ってあかねはぺちっと額を叩いた。
「はい、おしまい」
 消えたわよ──と笑う。


 恨むわけないじゃない


 頭にその一言がこだました。
 じわっと胸が熱くなる。
 そう思うと顔まで熱くなる気がして慌てて横を向き、思考を悟られないように咄嗟に言葉が口をついて出た。
「まっ、おめーみてーな鈍い奴、呪いにもかかんねーよな」
「鈍くて悪かったわねっ!」
 呪いのせいではなく、正真正銘の怒りで乱馬は空を飛んだ。





「乱馬くんは?」
「知らないっ」
 なびきの問い掛けに一言吐き捨てた。
 なおも聞いてくるのが欝陶しくて、あかねはそこを離れ、人の波をさかのぼる。むすっとした顔で人混みを縫うように歩く。
 ばかばかばかばかばか
 胸のうちで早口で喚きたてる。
 助けてやったのに、なによあの言い方はっ!
 まったくロクな祭りじゃない。乱馬のおかげで散々だ。
 歩いていると射的が目に入った。あれから3回ほどリトライしたが、結局ダメだった。欲しかった物は取れなかった。
「あ……」
 ちらりと覗いて思わず声が漏れた。
 上から二段目の右から二番目。
 消えていた。
 あかねを見たテキ屋のおじさんが申し訳なさそうに「ちょいと前にとられちまったんだよ」と言う言葉も遠く聞こえた。
 ますます落ち込んだ。
 髪をかきあげるついでに、指がバレッタに伸びる。
 せっかく可愛いの見つけたのにな……
 何も射的で当てなくたって買った方が安くつくわよ、あんたの場合
 なびきの言葉にも耳を貸さなかった。
 結局それは的中した。
 こんなことが的中したって嬉しくもなんともない。
 どんなに思っても答えは変わらない。
 欲しかった景品のバレッタは自分以外の手に渡り、自分にはなにひとつ残らなかった。支出だけでマイナス計上。おまけに走りまわって疲れて、騒ぎの元凶は感謝もなく憎まれ口。
 赤字もいいとこだ。


 ポンッ


 軽い爆音と共に火薬の弾ける音が響く。人込みはざわめきからどよめきへ変わった。
 花火だ。
 規模は小さいけれど、毎年上がる花火が始まったのだ。
 夜空の彩りに背を向けたまあかねは立ち尽くしている。
 こんな気持ちのままで見る花火なんて全然楽しくない。


 どんっ


 大きく弾けた。
 つられるように振り返ってみれば、白い軌跡が柳を垂らすように見えた。
 いつしか皆が立ち止まり、黒山と化している。あかねより高い位置にある頭が沢山邪魔をしていて、見ることすらままならない状態。
 やっぱりとことんツイてないみたい。
 落とした肩をふいに掴まれた。驚いて振り返ると乱馬がいた。
 腕を掴まれ、人の間を通り、屋台の裏手に連れていかれ、そして振り向くと笑って今度は手を引いて歩き出した。

































 

 6.空と君の間




「うわぁ、きれー」
 人の群から離れたせいか、空に近いせいか、
 花火はいつもよりずっと大きく綺麗だ。
 落ちないように気をつけることも半ば忘れ、夜空の花に心を奪われる。
 境内の脇にある大木のひとつ。一際高い木の枝に腰かけて見る花火は素晴らしかった。
 手を伸ばせば月にも届くかもしれない。
 三日月のシーソー
 星々の瞬き
 夜空は世界を語る。
 ずり落ちそうに揺れた身体。咄嗟に伸ばした手が乱馬の服を掴む。支えられた腕に安心した。
 改めて座り直し、今度は隣を見上げた。
「あぶねー奴だな、落ちたらどーすんだよばか」
 言葉とは裏腹に込められた声の響きに笑みを浮かべた。
 そんなあかねの顔につい見とれ、自分に叱咤するように口を尖らせ乱馬は前を向く。
 またひとつ花が咲いた。
 瞬時に世界が染まった。
 やっぱりここから見る光景はバッチリだったな──と胸中で呟いた。
 人にまみれて狭い思いをするよりもよほど気分もいいというもんだ。
 いい場所を見つけたと思い、あかねに教えてやろうと思っていたらあの騒ぎ。本当はもっと早く教えるつもりだったのに、とんだ騒動に巻き込まれちまった。
 張本人の少年は悪びれずに真顔で文句を垂れる。
 どこまでも強気な男である。

 光の色に染まる乱馬に目をやって、ふとあかねは気づいた。
 乱馬の右手。
 さっきからポケットを探り、離し、また触っている。
 そのポケットは、少し膨らんで見えた。
 なにかが入っているのは間違いないらしい。
「なに、それ?」
「──あ……」
 右ポケットに入れ、何度もその存在を外から確かめていた物。
 指摘した途端、目が泳ぐ。
 隠し事。
 しかも決まりが悪いことだ。
 花火を見るのに誘ってくれたという喜びにちょっと影がさす。
 何度か口でぶつぶつと呟いている乱馬から視線を逸らし、あかねもまた決まり悪げな態度。一人では降りることすらままならない天に近い空間。開放感はなく、なんだか急に重くなった。

「別にわざわざ取ったわけじゃねんだからな」
「はあ?」
 いきなり偉そうにそう言って右手を突き出した。
 手を出せと無言の命令に、あかねは眉を寄せつつ手をのべた。
「これ……」
 差し出した掌にぽとりと落ちたのは欲しくても思いが届かなかったバレッタ。
 手を伸ばしても伸ばしても、擦り抜けていった物。
「あんなもんの為に何度やるつもりなんだ」と馬鹿にされた物。
 それが今、手の中にあった。
 信じがたい思いで見上げた。
 怒ったような顔をした乱馬と目があった。「なんだよ」と口を尖らせる。
 けれど知っている。
 こういう時の乱馬は怒っているんじゃない。
 そうやって照れくさいのをごまかしてるだけなのだ。
「貰っていいの?」
「おれが持ってたってしょーがねーだろ」
 ぷいと前を向いた。
「壊れたもん付けとくわけにいかねーだろ」
 慌てて頭に手をやった。
 外す。
 いつ気づいたんだろう?
 恥ずかしくなってちょっと笑った。
「貸してみろ」
「え?」
「付けてやるよ」
「え!?」
「何だよその顔は」
「だって──」

 頭を横に向けた。
 髪に触れる乱馬の手の動きに緊張する。全神経がそこに集中していく。
 花火の音よりも心音の高鳴りの方が大きく響く。
 やがて気配が離れ、あかねは頭に手を伸ばす。
 どんな顔をしているのかわからないけれど、今の自分はきっと、ものすごくヘンな顔をしているに違いないとあかねは思った。
 花火があがる。
 追い撃ちをかけるような響きをもって、心を打つ。
 自分の行いが自分でもよくわからなくて、乱馬は花火に見とれるふりをした。
 嬉しそうに、幸せそうに笑ってるあかねの顔が瞳の端に見えても、わざと見ないふりをした。
 感じるあかねの視線なんて気にもしてねーんだと、自分に言い聞かせた。
「乱馬……」
「…………」
「ありがとう」
「たいしたことねーよ」
 そこでよせばいいのに一言付け加える。
「あんなもん一発だぜ。誰かさんと違ってな」
「不器用で悪かったわね」
 脇腹をつねられ、顔が歪んだ。



 かんざしを貰った女は恋に破れた。
 恨みを残すほどに強い想いがそこにあったのだろうか?
 男はその気持ちにまったく気付かなかったのだろうか?
 届かなかった思い。
 その気持ちはどこに消えてしまったんだろう……



 頭を飾るバレッタの感触を感じながら、そんなことを考えた。
「あのかんざしみてーに呪いかけんなよな」
 同じことを思っていたか、ぶっきらぼうにそう言った。
「さあね、誰かさん次第じゃないの?」
「けっ、かわいくねーの」




 花火が高く上がる。
 背を反らし見上げた。
 落ちないようにと自然に隣の腕にすがる。
 祭りの終わりを告げる花火が夜空に咲く。
 闇夜に光を放ち、二人の頬を赤く染める。


 夏を過ぎる風が渡った。


























『呪』が額のど真ん中に書かれていて、そのせいで皆に怨まれて、でも何故かあかねは平気だった。
そーゆー話を書こうと決め色々考えてるうちに「かんざし」の設定が生まれ、そこから「髪留め」を付け加え。
初めはあかねが呪を消して、なんでだろう? で終わる予定だったし、そこに至るまでにあんなにかかるとは思わなかったし。
構想段階から内容は二倍になり、文章はさらに二乗になりました(笑)
とにかく漫画を文章で表現しようと思い、書き方を考え──てもないけど(笑)(結局もう地の文章やし)「らんま」っぽい話を書くというサイト開設時からの目標に一歩近づいたかなーと、自分で勝手に満足してます。
ほんとはもっといっぱいギャグを入れたかってん。名もない通行人のギャグ。なぜかいきなり現れた金魚屋が転倒したり、射的屋が狙って撃ってきたりするよーなやつ。あ、やりゃよかったな……(笑)

さて、結局あかねは何故呪いにかからなかったのか、わからないままですが、そこは各人の判断にお任せします。
その1 愛ゆえに
その2 時間切れ
その3 やっぱりただ単に鈍かった
等々

その答えは、アウターゾーンの彼方にあるのです(古っ!)

【2003.09.05】