小匙一杯分の愛情
  小匙一杯分の愛情



 スケジュール帳を開いた。
 もう何度目になるのか、わからない作業。
 たいした意味なんてなくて、ただ単に手持ち無沙汰だから。
 こうやってページをめくることで、自分はぼーっとつまらなさそうに待っている女の子なんじゃなくて、優雅に、のんびり、余裕をもって相手を待っている「大人」を演出しようとしているのかもしれない。無意識のうちに。
 少しでも多く時間をかけようと、また最初のページから、ゆっくりゆっくりとめくっていく。
 仕事に生きる営業マンというわけじゃないのだから、そうそう予定が立てこんでいるはずもない。第一、普段は学校があるのだから、大体の用事はそこで事足りるのだ。
 その上で、書く事柄としてば、せいぜい週末に友達との予定が少し入っていたりする程度か。あとは、欲しい本の発売日だとか、忘れてしまわないようにと書き込んだメモ書きだとか。
 白いままであるのがなんとなく悔しく寂しいような気がして、何かで埋めようとした結果が、きっと今のこれ。
 逆に虚しいのかしら──と、半ば自虐的に天道あかねは胸中で呟いた。
 そんな平凡学生の事情とは裏腹に、たまに盗み見るひとつ上の姉、なびきのスケジュール帳は、女子高生の域をはるかに越えた、かなり分厚いものだ。もっともそれは、顧客リストを兼ねているものらしく、普段の用事を書き込むためだけのものは、わりとシンプルで事務的な物を使っている。
 余計な装飾は必要ない。
 そんな姿勢はいかにもなびきらしい。彼女には、女子高生が喜びそうなキャラクター物は似合わないだろう。
 うさぎの絵がページ隅に描かれている己のスケジュール帳をなんとなくため息と共に見やって、あかねはさらにページをめくっていく。
 今月のスケジュール。
 今日の予定。
 別に書き込む必要なんてなく、ちゃんと覚えている。
 けれど、それでもなんとなく書いてみたかっただけ。
 だが、こうして待っている時間が長くなると、自分で書いたその文字が、無性に恨めしく思えて仕方なかった。
 間違いなく、今日。
 なのに、なんだってこんなに不安に思えてくるのだろう?
 腕時計を見ると、待ち合わせにはまだ余裕がある。単に自分が早く着きすぎただけなのではあるが、そんなことは棚上げして、あかねは口を尖らせて心の中で悪態を吐いた。
(まったく、なにしてんのよ、乱馬のバカ)
 どうせまた、捕まったとか捕まったとか捕まったとか捕まったとかに決まってる。
 そのことについて怒っても仕方がないのだとわかってはいるけれど、面白くはない。優柔不断な乱馬が悪いのだ。
 相手が強引すぎるのも否めないし、なんだかんだで変なところで優しい早乙女乱馬は、女の子を無下には扱えない。勝負が絡むと、こちらが「なにもそこまでしなくても」と呆れるほどに非道にもなるくせに。
 まあだからこそ。
 そのギャップが面白いと言えなくもないのだけれど。
 結論づけて、あかねは一人笑った。

 食事時でもないせいか、店内はわりと空いている。
 だからこうしてのんびりと座っていられるといえるのだけれど、たった一人でいるというのは、少々居たたまれない気もする。
 通路を挟んだ向こうの席では、大学生ぐらいのカップルが顔を突き合わせてなにやら話をしていた。少し低めの優しい男性の声に、女の自分が聞いても「可愛いなぁ」と思える、女性の声。
 恋人の雰囲気って、こういうことを言うのかな、と。
 素直に思えて、こちらも温かい気持ちになれる。
 自分と乱馬じゃ、きっとこうはいかないだろう。
 そのことについて別に虚しく思うわけでもないけれど、憧れるぐらいはいいじゃないかと、こっそり呟く。  夢は、夢だから。

 席に陣取ったままでいるのも悪いので、時間稼ぎにと、あかねは紅茶を頼んだ。きちんとした用具に入れられて運ばれてきたそれを、ソーサーに注ぐ。少し優雅な淑女気分だ。
 底に沈んでいた紅茶葉が、再び舞い上がった。
 窓辺から差し込む光に透かされて、テーブルの上に茜色の影を作る。円筒形の容器の中で揺れ動く葉は、紅い海に降るマリンスノー。
 光に煌めくルビーみたいで、とても綺麗だ。
 待っている時間も、そうそう悪いわけじゃない。
 うん、と頷いて、あかねは満足げに微笑んだ。
 口に含んだ紅茶は、少々味気なくて、備え付けのシュガーポットを引き寄せて、一杯だけさらり投入。ついでにミルクも。
 小さなティースプーンを片手に、ゆっくりと混ぜる。
 頬杖をついた姿勢で、窓の外をのんびりと眺めながら。
 底でざらめいていた砂糖が、ゆっくりと溶ける。
 くるりくるりと、ミルクも渦巻く。
 ゆるりゆるりと、カップの海で溶けてゆく。
 時折、ちりんと音を立てながら。

 なんとなく飲むのが惜しくて、
 音を立てるカップが少し楽しくて。
 あかねは、スプーンを回す手を止めない。
 ミルク色のマーブル模様がすっかりなくなった頃には、かの待ち人もやってくるだろうか?



「もう、なにしてたのよ」
「なにって、別に」
「待ちくたびれた」
「たいして遅れてねーじゃねえか」
「待ち合わせっていうのはね、少なくとも五分は早く来るものなのよ!」

 顔を合わせた途端、口から飛び出すのは、いつもと同じ威勢のいい言葉ばかり。
 どこに居たって変わらない、いつもと同じ空気と匂い。
 ひっそりと囁くような秘め事にも、
 軽やかにさえずる小鳥のような可愛らしさにも、
 自分達はとんと縁がないらしい。

「ほら、さっさと行くぞ」
「ちょ、待ってよ。これ、最後まで飲むから」
 せっかく頼んだのにもったいないじゃないの。
 そう言うと、「おめー、なびきみてーなこと言うなよな」と、乱馬は呆れ、憮然顔。
 そんな彼に小さく舌を突き出して、あかねはカップを手に取り、わざとらしくすまし顔で口をつけた。


 小匙に一杯だけの砂糖。
 たいして甘いわけでなく、苦いわけでもない。
 そんな微妙な味がきっと、今はちょうどいい。

 ほんのちょっとの甘さと、
 ほんの少しの優しさで、
 今の二人は出来ている。













 一年ぐらい前に書いて放置してたやつ(笑)
 たぶんきっと、今書くと全然違うアプローチの話になると思うのですが、
 その時にしか書けない雰囲気というのもあるので、そのままリテイクなしで。