なつのおもいで
なつのおもいで
海って、楽しいようで、ちっとも楽しくない。
あたしは泳げないし、一緒になって騒げない。
カナヅチだからって、どこかに遠慮が見られる。
その気づかいが、かえって居たたまれない。
気を使われて、こっちもそれに気を使って
気にしないでよ──って、笑う。
そんなことにも、なんだか疲れてしまうから。
その点、家族で行く海は遠慮がいらない。
泳げはしないけれど、それなりに楽しい。
水中眼鏡と、大きめの浮き輪を装備して。
準備は万端整ったのだけれど、
ここが近くの海水浴場だってことを、あたしはすっかり忘れていた。
「あいやー、乱馬。わたしに会いにきてくれたのだな。大歓喜」
「シャ、シャンプー……」
現れたのは、猫飯店出張所の看板娘。
乱馬はたじろぎ、家族は傍らで冷やし中華をすすっている。
「あかね、いらないの?」
「いらない」
「おい、あかねっ」
「知らない!」
なびきおねえちゃんの声に一言で返し、
乱馬の声には怒鳴り返して、あたしは歩き出す。
なによ、乱馬のばか。
沖まで行くって、言ったくせに。
そこは遠浅だから、あたしでも大丈夫だって。
だから、そこまで連れて行ってやるって、そう言ったくせにっ。
怒りのままに突き進んだせいで、外れのほうにまで来ていることに気づいた。
ゴツゴツとした岩がいっぱいで、泳げる場所がないせいか、人もいない。
一度立ち止まって、ずいぶん疲れていることをあたしは自覚した。
どのくらい歩きつづけたのか、実のところよくわからない。
がむしゃらになると、時間の感覚を忘れてしまうところがあるから。
足が痛い。
足場の悪いところを歩きつづけたせいに違いない。
あたしは岩のくぼみに座り込んだ。
ここでしばらく休んでいこう。
波の音が心地いい。
背中にある岩壁が、ちょうどいい具合の背もたれになっていて、
瞳を閉じた。
*
ほんの少しの間のまどろみ。
けれど、現実の世界は倍速で進んでいた。
太陽はとっくに角度を変えている。
慌てて立ち上がって、足首に走る痛みに顔をしかめた。
見たところなんの異常もないけれど、どこかでひねったのかもしれない。
今まで怒りのせいで、認識していなかっただけかもしれない。
どうしよう……。
このまま動けないままで、暗くなっちゃったら。
潮が満ちてきたとしたら──
「…………乱馬」
結局、その名前がこぼれる。
一度口にしてしまったことで、固まっていた心はどんどんとけていく。
本当はちゃんとわかってるのに。
シャンプーがいたのだって、別に乱馬が呼んだわけじゃないんだし、
あのまま待っていたら、シャンプーだって出前に戻っただろう。
そうしたら、一緒にお昼を食べて、
そうして手を引いてもらいながら、沖まで行って。
まわりが全部海っていう憧れの景色を体感する。
そうするつもりだったのに。
きっと楽しい思い出になると思ったのに。
今年の夏の、一番の思い出になるって思ってたのに──
「……乱馬……」
「なんだよ」
間髪おかずに声が降ってきて、驚いて顔をあげる。
岩場の上から、乱馬が見下ろしている。
顔が影になって、表情がよく見えない。
だけど、いつもに比べてずっと険しい顔をしていた。
怒ってる。
それは当然だ。
だってきっと、また、おとうさんに「探して来い」って言われでもして、
そうしてしぶしぶながら出かけたに違いないから。
迷惑かけやがって──って、怒ってるんだ。
そう思う傍らで、あたしのことを心配して探してくれたに違いないという気持ちもある。
だけど、そんな風に思う自分は、ひどく身勝手に感じられた。
怒ってその場を離れたのはあたしなのだから。
乱馬が「待て」っていったのを無視したのはあたしだから。
追いかけてきてくれるって勝手に期待してたのは、あたしなんだから。
「言っとくけどなー、おれは──」
「ごめんなさい……」
口を開いたのは同時だった。
上から降りてきて、あたしの横にしゃがみこんだと同時に、あたしは乱馬に向かって口を開いた。
ごめんなさい。
迷惑かけたよね、ごめんね。
ごめんなさい。
独り言のように呟いていた。
さっきまで考えていたことまで、吐露していた。
思ったこと、感じたこと、自分で驚くくらい素直に口にした。
不思議だと思う。
潮騒の音は、どうしてこんなにも心を穏やかに変えてくれるのだろう。
「……もういい」
「──え?」
「んな謝んなくても、別に怒ってなんかねえ」
「でも……」
乱馬はずいぶん汗をかいていた。
その身体は、海に入らず、ずっとあたしの姿を探していたことを物語っているように思えた。
勝手な想像かもしれない。
だけどきっと、乱馬はそうしてくれていたんだって、素直に信じられた。
「……ごめんね」
「だから、おまえが謝ることねーだろ。おれはおまえが──」
「──あたしが?」
「いや、だから……」
おまえが無事なら、それでいい。
ぼそりと早口でそう言うと、目をそらした。
まったく、本当に。
どこまでも素直じゃない。
だけど、それが乱馬だ。
ぶっきらぼうな言い方しかできないのが、乱馬。
結局、「しょうがないな」って、思ってしまう。
こうやっていてくれるだけで、もういいやって、そう思ってしまう。
悔しいけれど、それが事実だ。
そんなことを考えながら乱馬を見ていて、いい加減知らん顔をするのにも疲れたのか、こちらを向いた乱馬と、ふと目が合った。
胸が大きく跳ね上がった。
唾を呑む音が、頭の中で反響する。
膝の上で、拳を握りしめた。
ザッパーン!
高波に襲われた。
潮が満ちてきたせいなのか、ずいぶんと水位は上がっていて、だからこそ波が余計に高かった。
目に海水が入ったのか、すこししみる。
頭から水をかぶって、一気に頭が冴えた気分。
目の前には、同じような状況の、女になっている乱馬。
一瞬、なにが起こったのかわからないといった風な顔で呆然としている。
ぽたぽたと水滴を垂らす乱馬がおかしくなって、あたしは笑った。
おかしくて、
楽しくて、
嬉しくて、
幸せで、
笑った。
*
「おい、とっとと帰るぞ」
「ちょっと、待ってよ」
痛む足に顔をしかめると、乱馬は無言で背を向ける。
しゃがみこんで、何も言わずに背中を見せる。
あたしも何も言わずに、その背にすがる。
「ごめんね」
「なにがだよ」
「うーん、色々」
「謝ったからって、おめーのずん胴が治るわけじゃねーだろ」
「誰がずん胴の話をしとるか!」
ぐいっと、首に回した腕に力をこめる。
「ぐ、ぐるしい。おまえ、人を殺す気か!」
「口は災いの元!」
「なにが災いだよ、この凶暴女っ! その辺に捨てて帰るぞ」
「いーもん、やれるもんならやってごらん」
笑って返した。
そんなこと、思ってもないくせに。
笑いながら、乱馬の肩に頭を乗せる。
「テコでも離れねーって、妖怪子泣きじじいみてーだな」
「誰が妖怪よ!」
女の乱馬の背中は、いつもと変わりないくらいあったかくて、安心する。
乱馬の憎まれ口を聞きながら、あたしは瞳を閉じて、身体をゆだねる。
出来ることならば、もう少しだけ、こうして波打ち際を歩いていられたらいいな――と、そう思いながら。
乱馬には聞こえないぐらいの小さな声で「ごめんね」と、めいいっぱいの「ありがとう」を呟いた。
「宵のムラサメ」さまのメルマガに蛇足参加させていただいた時のお作。
さあ、波のようにみんな引け!(笑)
(これでも途中までは「甘さ」を目指してたんだよ、ええ。どこで挫折したかはバレバレだけど/笑)