雨 空 幻 想
  雨 空 幻 想




1  雨音



 道場で聞く雨音は、拍手に似ていると思う。
 広々とした空間に一人っきりでいると、空虚感がさらに増して感じられる。
 それと同時に響くその音は、歓声の拍手というよりなんだか嘲笑われているかのように思えて、あかねは身を竦めた。
 誰もいないことはわかっているのに周囲に目を走らせる。
 誰かに覗かれている気がして唾を呑み、下ろした拳を握り締め、視線をぐるりと這わせた。
 ガタ──
 風が吹きつけたのか雨戸が大きな音を立てる。息を呑んで振り返った。
(ただの風じゃない……)
 ガラスの向こうに見える木がしなり、幾つかの葉が窓に張りついている。時折、ガタガタと揺れる窓ガラスを見ながら、あかねは独白した。
 時は六月。梅雨の時期だ。
 東京が梅雨入りしたなどというニュースはまだ耳にしていないけれど、この分だともうそろそろなのかもしれない。随分と雨が続くなと思っていると、「梅雨入りしていました」などと過去形でアナウンサーが知らせたりすることなど、あまり珍しくもないことだからだ。
 止めとこ。雨の日に道場の掃除なんてしても仕方ないもんね。
 そう考えて、あかねは持っていた雑巾とバケツとを持ち上げた。
 あちこちにボロがきている道場だから、気がつくとどこかで雨漏りがしている。そのたびに拭いて、そして乱馬を急き立てて屋根の補修をさせるのは、ここ最近では当たり前の光景になっていた。
 早雲などは「近い将来、看板を背負う身。自分の道場ぐらい自分で直す術を心得ておかんとなー」などと笑っているが、本音は自分一人でやらなくてよくなったことを喜んでいるのではないかと、あかねは心ひそかに思っていたりする。
 早乙女親子が来るまで、なにもかもが父の仕事だったから。
 自分がやると申し出ても、「まあ、おとうさんがやるから。危ないからあかねは下にいなさい」と止められていた。立てかけられた梯子の先に消える父の姿を追って、あかねはいつも、もどかしさを抱えていたのだ。
 乱馬が来てからは、分担して行われているらしい。
 らしい──というのは、結局、自分にはあまり手伝わせてもらえないから。
 乱馬は「おめーがやったらまた直すんだから二度手間だ」だのと意地の悪いことをよく言う。
 あかねは憤慨するが、その度に屋根にはもう一つ穴が開き、手伝おうと手伝わまいと、補修場所は増えていることをあまり自覚してはいなかった。
 屋根や壁の補修は出来ないけれど、拭き掃除は自分の仕事。
 今ではそう割り切っている。
 休日の暇に任せて掃除をしようと思っていた矢先に、この雨だ。ついさっきまでの空が嘘のようにどんよりと曇っている。こんな日に雑巾かけをしたって逆効果。返って湿気を招くだけだろう。
 庭先に、汲んであった水を撒き、用具を片付けて母屋へと戻った。
 部屋に入ると、さっきまで聞こえていた野卑じみた歓声の音は聞こえなくなる。
 窓を開けて聞こえてくるのは、むしろ静かな音。
 幕を引く時に奏でられる、静粛な拍手の音。

 風はいつしか静まり。
 それとともに雨は、一層静かに世界に幕を下ろしはじめた。


























2  霧雨



 さて。なにをしようか。
 道場の掃除をするという目的がなくなってしまった今、彼女に残された選択肢は、ざっと思いつくかぎりでは「家事をする」「自室の掃除をする」「なにもしない」であるが、そのどれも、進んで起したい気持ちは薄かった。
 まず「家事」に関して言えば、すでに夕飯の準備は姉の手によって整えられている。あとは調理を待つばかり──といった状態で、もう自分にすべきことはない。
 次に「自室の掃除」であるが、これは数日前に完了しており、あまり手を入れる場所は残されていなかった。
 最後の「なにもしない」というのは、「なにをしようか」という考えから相反するものだ。前提からして間違っているので却下。
 証明終了。

(なにもしないっていうよりは、なにもすることがないって言う方が正しいわよね)
 溜め息をついて、あかねはベットに腰かけた。
 足元に転がっている雑誌を手に取り、パラパラとめくってみる。そのまま仰向けになり、腕を伸ばして掲げたページを見つめて呟いた。
「いーなあ……」
 すらっとした女の子がどこかの街角で振り返って笑っている。
 ノースリーブの青いシャツ。首に巻いたスカーフは白く、布をたっぷり使った真っ白なスカートから伸びる素足は、腕と同じくらいに細い。擦れたあとのカケラもない綺麗な膝小僧と、形のよいくるぶし。
 少し眩しそうに目を細めた笑顔は、来るべき夏をよりよいものにしようと燃えている世の女性達の購買欲をそそるべく計算された表情。わかっていても、それでも、踊らされてしまうのがほんの少し哀しい。
 こうやって紙面で見ると素敵に見える服が、いざ自分が着用した途端、妙に野暮ったく見えてしまうのは一体何故なんだろう。
 こんなの違うっ。
 鏡に映しては、声無き声で叫ぶ。
 たまに声に出していて、それを耳にした乱馬に笑われたりもするけれど――勿論、制裁は忘れない――、結局は購入するのはやめられない。わかっていても買ってしまう。哀しい女の性である。
 その点、姉のなびきは「上手い」と思う。
 すぐに手は出さず、しばらく待つ。単にセールを狙っているだけではなく、待っている間に心の動きを確かめるのだ。
 三日待って、それでも欲しいと思ったら考える。一週間後に忘れていなければ買うのよ。
 以前、そんな答えが返ってきたときには「ケチなおねえちゃんらしい長期的展望よね」と言ったものだけれど、失敗を繰り返している自分と比較すると、どちらが正しいとは言い切れない気もしてくるのだ。
 故に、最近のあかねは、「考える」ということをしてみることにしている。
 姉に倣うわけではないけれど、想定してみるのは悪いことじゃないと思うのだ。
 掲げた雑誌を下ろし、胸に抱く。
 瞳を閉じて、想像してみる。
 夏。晴れ渡った空に、真っ白な入道雲。
 眩しい太陽の下で笑う自分。
 笑顔の先にいる誰か。

(誰かって、誰よ)

 思考を打ち消すように頭を振る。上体を起こし、半身だけを捻って窓の外を見た。
 向こうは灰色の空。清々しさのカケラも見えないどんより模様だ。それでも雨足は少々弱まってきているらしい。窓ガラスを叩く雨は、雨粒から霧状のものへと変わりつつある。
 丸めた雑誌へ目を転じて思い出す。
 そうだ。たしか最新号が発売しているはずだから、運動がてら、それを買いに行こう。
 本当は昨日買おうと思っていたのだけれど、すっかり忘れていたのだ。
 学校を出るまではきちんと覚えていた。だけど、帰り道に――

(とにかく、出かけよう。どうせ家に一人でいたって仕方ないもの)
 雨の日に出かけるのはあまり気の進まないことだけど、このまま家の中でくすぶっているのはなんだか余計にじめじめとしそうで嫌だった。
 よし。決めた。
 決断すると、潔いのがこの少女だ。外の雨を考慮して、薄手のパーカーをブラウスの上から羽織り、多少濡れても苦にならないバックを手にして部屋を出た。
 一階は静まり返っている。
 いつもは耳を塞ぐほどにうるさくてたまらない姿はどこにもないし、姉や父親もそれぞれがそれぞれの用事で出払ってしまっている。夕刻まで、彼女一人で留守番なのだ。
 あかねは、家のあちこちを施錠してまわった。
 そうしていると、本当に一人なんだな――ということを実感する。
 別に一人で留守番をすることが恐いだとか、そんな年齢ではないけれど、こういったじめじめとした天気の日は、心までもがなんとなく沈んでしまうのではないだろうか。
(やだな……、なに気落ちしてるんだろう)
 胸の辺りにあるわだかまり。
 その原因についてはあまり考えたくなくて、あかねは無理やり考えを頭から追い出す。そしてふっと思い立ち、母の仏壇に向かった。
 誰もいないわけじゃない。そういえば、ここには母親がいるんだ。
「おかあさん、出かけてくるね」
 そう一言声をかけ、玄関に鍵をかけて門をくぐる。
 傘を差していても、雨音はあまりしない。
 煙るような雨は、普段はせわしない界隈を諌めるように降り注ぐ。
 しっとりと町を包む霧雨は、ほんの少しだけいつもよりも「優しい雨」だと、そう思った。


























3  水たまり



 やっぱり一枚羽織って出て、正解だったわね。

 音のしない傘の天井を見上げながら、あかねは胸の内で呟いた。
 ふわりとした霧雨は、まるで泡のように細かい水泡を作って、パーカーを塗らしている。ぐっしょり濡れるのであれば場合によっては諦めもつくけれど、こういう雨はものすごく中途半端だと思う。
 霧吹きみたいな雨。
 こんな雨でも、乱馬やおじさまは変身するんだろうか──?
 濡れるような濡れないような。
 降っているような、降っていないような。
 そんなどっちつかずの「雨」で。

 通りには、人の気配はない。
 普段から車もあまり通らないような住宅内だ。静かな雨の音だけがそっと耳に到達する。
 こんな天気の日に好んで外出する人は、そうそういないだろう。
 くるりと傘を回して水を跳ねさせながら、あかねはぼんやり考える。
 スニーカーの爪先が、靴紐が、水を吸って黒ずんでいる。
 こびりついた土が溶けて染み込んで、ますます汚れてしまった。
 別にいいけどね。
 わざと水を跳ねさせるように踵を上げて踏み下ろすと、アルファルトの水がわずかに飛び跳ねた。
 ついさっきまでは雨戸を鳴らすほどに雨風が強かったせいだろう。
 そこかしこに大小様々な水たまりが点在していた。

 水たまりは、不思議の国への入口である。

 幼い頃、そんなおはなしを聞いた記憶がある。
 小さい女の子が水たまりの中から出てきた妖精に連れられて、水たまりの国を旅する話。
 そして一方では、水たまりを踏むのが嫌で持っていたパンをそこに浸し、それを踏んで水に塗れずに渡ろうとした女の子の話。
 具体的な内容は忘れてしまったけれど、どちらも「水たまりから別の場所へ行ってしまう」というものだった。
 後者はその後、まるで底なし沼に沈んでいくように別の場所へと引きずりこまれ、泳げない自分はきっと同じようにもがき苦しむに違いない──と、恐怖に慄いたことだけは覚えている。たしか、「物を粗末に扱ってはいけない」という教訓を説くような童話だった。
 それとはまた別に、海や川。それに水たまりも、「空を映す鏡」であるという言い回しも聞く。
 雨の後ですっきりと晴れた青空の下ではそれも実感できるけれど、この曇天下ではあまり楽しい発想ではない。暗い水面はたしかに空を反映している。「空の鏡」であることは間違いないけれど、どうせ映すのであれば綺麗な青空の方が嬉しいというものだ。
 鏡というならば、空もまた「鏡」かもしれない。
 晴れた空を見て清々しいと感じる。逆もまた然りで。どんよりとした空は、淀んだ心を映したみたいだ。
 静かに雨が降り、ひんやりと肌寒い。
 薄黒い雲が全体を覆う。
 どんよりと、ねっとりと。
 光の入る余地など、どこにもないくらいに。
 朝も昼も無関係に、太陽の恵みを遮断する。
 じっとりとなにかがまとわりついているかのような気分にもなり、窮屈で苦しい。
 光を、温かみを求めて、雲の海をもがく。
 梅雨空は、落ち込んだ心を映す鏡だ。
 降り注ぐ涙は流れずにたまって、
 心の中で、大きな水たまりになっていく。


 溜まった涙は、どこへ行くんだろう。
 流れる場所もなく、きっと溜まったままだ。


 涙の水たまりに足を落とし、そこに沈んでいく様を想像して、あかねはかぶりを振る。
 頭上で揺れた傘がまた、新たな涙を散らせた。


























4  アジサイ



 藤色、青色、薄紅色。
 アジサイのそれは「花びら」ではないらしいけれど、見た目が「花」であればそれでかまわないような気がする。
 道沿いの公園。通りと園内を隔てる生垣には、溢れんばかりにアジサイが開いていた。
(いつの間に咲いたんだろう……)
 昨日ここを通った時には、咲いてなかったのに──。
 そう呟いた後で、考え直す。
 ひょっとしたら咲いていたかもしれない。
 それに気づいていなかっただけかもしれない。



 昨日の帰り道。乱馬と喧嘩をした。
 後になって思うと、どうしてだろうと少し落ち込んだりもするのだけれど、ダメなのだ。
 口を開けば悪態ばかり……。
 嫌なことを言ってるな、とか。なんでこんな言い方しかできないんだろう、とか。
 頭の片隅で思うけれど、一度開いた口は止まらない。
 開いてしまうと、あとはもう元には戻らないのだ。

 咲いた花が、もう二度と蕾には戻れないように。




 喧嘩して、いつもみたいに乱馬を張り倒して。
 逃げるようにして、その場を離れた。
 追ってこないように、追ってきても振り切れるように。
 とにかく闇雲に走った。
 前しか向いていなくて。
 だけど、気持ちは前を向いてはいなかった。
 後ろを気にして、気配を探って。
 追いついてきたらどうせまた、スピードをあげてそっぽを向いて、わざと乱馬の顔なんて見ないくせに。

 それでも探してる。

 待っている自分が嫌で、乱馬というより、自分の曖昧な気持ちを振り切りたくて、一心不乱に走っていた。
 だからこの公園のアジサイだって、見向きもしてなかった。
 その前日までは、いつ咲くのか、何色が咲くのか、そんな言い合いだってしていたはずなのに。
 どちらが勝つか。負けた方がアイスクリームを奢ることになっていたのに。
 アジサイを気にする余裕なんて、なかったのだ。
 ただひたすらに、心は駆けていた。
 早く家に帰りたい。
 早くこの場を離れたい。
 早くなんとかしたい。
 この気持ち。
 嫌な気持ち。
 グログロの気持ち。
 あたしのヤな気持ち。

 早く、はやく、ハヤク。

 早く、なんとかしなくちゃいけないのに、どうしてうまくいかないんだろう――


 その時、あかねの瞳に映っていたものは、アジサイでも、通学路でも、雲が多い空でも、通り過ぎる自転車でもなくて、
 いなければいけないはずの、ぽっかり空いた隣のこと。
 今は見えない隣の誰かのことだけだったから。




 あかねは立ち止まり、園内に入った。
 ぐるりと見回すと、そこかしこにアジサイが咲いているのが見えたけれど、場所によって色は様々だ。
 そういえばアジサイの色は、土が酸性かアルカリ性なのかによって変わってくるというけれど……


「――どっちが勝ったか負けたか、これじゃわかんないじゃない……」

 ぽつりと呟いた言葉が、雨に沈む。
 アジサイの葉からは、ぽたりぽたりと雫が垂れる。


 少女の代わりに、泣いていた。


























5  長靴



 ぱしゃん。
 水が跳ねる音がした。
 顔を上げて、見回してみる。すると、黄色が目に飛び込んできた。
 沈んだ空気と、淡いアジサイの幻想的な絵の中に突如として現れた、鮮やかな色。
 それは、黄色いカッパを着た子供だった。
 傘を持たず、すっぽりとフードで頭を覆っているので、一見すると男の子なのか女の子なのか判別がつかない。
 足元まで深く覆う黄色い雨具から生える長靴は、やっぱり黄色だ。
 ぱしゃんぱしゃんと、子供は飛び跳ねる。
 足元の水たまりを跳ねさせて遊んでいるようだった。
 どこの子だろう、一人で遊んでるなんて。
 しかもこんな天気だ。友達らしき姿は見えないし、親の姿も見かけない。だからといって、迷子というわけではないだろう。
 ここは住宅街の近くにある小さな公園だ。
 他所から来た人は、こんな所に公園があるだなんてきっとわからない。
 相変わらず子供は背を向けたままで、こちらからは、小さな身体がまるでボールのように跳ねる様が見えるだけだ。飽きもせず、無心になってそこにいる。
 どうしよう、大丈夫かな……。
 誰かに連れ去られてしまうなんて事件がそうそう起きるとも思えないけれど、だけど見つけてしまったからにはなんだか立ち去りにくい。このまま自分が行ってしまった後で、万が一にもなにか事件にでも合ってしまったら……。
(せめて、あの子が先に家に帰ってくれればいいんだけどな……)
 溜め息とともにそう思った。
 その時、子供が着地に失敗して転がった。あっけなく、小さな身体が地に倒れる。あかねは慌てて走り寄った。
「大丈夫?」
「うん、平気だよ」
 答えた声に、上げた顔に、唖然とした。
 女の子だった。
 短く切りそろえた髪が僅かに雨で濡れ、倒れたせいで顔にも泥がついている。黄色いカッパも土にまみれ、小石にでもぶつかったのか穴が空いてしまっていた。
「……………………」
「おねえちゃん、どうしたの?」
 問いかける瞳に、呆けた自分の顔が映っている。
 きっと自分の瞳にもこのあどけない顔が映っているに違いない。
 くりくりとした、大きな黒い瞳の女の子が。


 あかねはその子を助け起こす。
 汚れてしまったカッパはもうどうにもならないけれど、それでも皺をなんとか引き伸ばす。
 胸についていたネームプレートが取れてしまい、糸一本で繋がっている状態。雨に濡れ、染み込んだ水のせいで少しだけ滲んでしまっているけれど、書いてある文字ははっきりとわかった。

 てんどうあかね。

 そこには見覚えのある懐かしい母の文字で、そう書いてある。
(…………あた、し?)
 泥のはねた黄色い雨具に身を包み、こちらをきょとんとして見つめているのは、幼い頃の自分だった。

 いくつだろう?
 この黄色いカッパはきっと、幼稚園の頃に着ていたことを記憶している。お揃いの長靴を買ってもらって、雨も降っていないのに着て喜んで、そして笑われたことがある──。

 口を開けないまま、時が過ぎる。
 雨は、段々と弱まり始めていた。


























6  傘



 どのくらい黙っていただろうか。
 信じられない思いで、あかねはおそるおそる口を開いた。
「あかね、ちゃんっていうの?」
「うん、てんどうあかねです」
 目の前の女の子は、にっこり笑って頭を下げた。
 自分で言うのもどうかと思うけれど、それはひどく可愛らしい仕草だった。
 倒れた際に地面に手をついたのだろう。小さな手は泥がつき、その手で顔をこすったせいで頬にもこびりついている。カバンから取り出したハンカチを備え付けの水道で濡らし、泥をぬぐい取りながら、あかねは小さな自分に問いかけた。
「……ねえ、どうしてこんな所に一人でいるの? おかあさん、は?」
 高鳴る心臓を抑えながら、問いかけた。

 おかあさん

 ひょっとして、もしかしたら。
 この近くにいるのではないだろうか――。

 それは喜びでもあり、小さな恐怖でもあった。
 おかあさん。
 もうこの世にはいない人……。

 すると、目の前の子供は俯き、小さく搾り出すように別のことを呟いた。
「────あかね、かえらないもん」
「……どうして?」
「──かえれないもん、おかあさんにいじわるいったから、もうかえれない」
 なんとか泣くまいと堪えた顔で、その子は言う。
 けれど、その声は涙まじり。
 なんでもない振りをしているけれど、本当は辛くて哀しくてたまらない、そんな気持ちが滲んでいる。

 意地っ張りなのは、昔っから変わらないのかな……。

 あかねの心に、泣きたくなるような熱い気持ちが込み上げた。



 おかあさんに、意地悪を言った。だから、気まずくて帰れない。

 ううん、違う。そうじゃない。本当はそうじゃない。
 恐くて帰れないんだ。


 怒ってたらどうしよう。
 許してくれなかったらどうしよう。

 もしも、自分のことを嫌いになってしまったらどうしよう……。




 そう考えると、帰れない。
 そこまで考えて、あかねは苦笑した。
 そういえばこの公園。一人でよく遊びに来たっけ。
 癇癪を起して飛び出して、ここで一人で遊んでると、おとうさんとおかあさんがやって来る。
 そして、二人の間に入って、両手をつないで家路につく。
 見上げた両親の顔はとても高い所にあるけれど、二人のぬくもりはすぐ傍に感じられて、それだけで満足していた。
 いつも本当は待っていたのだ。
 すぐに拗ねてしまう自分だけど、それを許容してくれる存在を。


「ねえ、あかねちゃん。大丈夫よ。きっとおかあさん、あかねちゃんのこと待ってるよ」
「…………」
「きっと……、ううん。絶対心配してるから、だから早くおうちに帰ろう?」
 汚れたフードを上げて、あかねは持っていた傘を握らせる。
「ほら、汚れちゃってるから、おうちに帰って綺麗にしなきゃ」
「……おねえちゃんは?」
「なあに?」
「かさ、おねえちゃんはどうするの?」
「大丈夫、おねえちゃんのおうちね、この近くだから。走って帰れば濡れないし、ほら、もうあんまり降ってないから」

 見上げた空は、まだ雲に覆われてはいるけれど。
 それでも、水たまりに映る空は、さっきよりも明るくなっているように思えた。


























7  道路



「ありがとう、おねえちゃん」
「気をつけてね」
「うん」

 不釣合いに大きな赤い傘を両手で持って、小さなあかねが遠ざかる。
 公園の土は雨のせいでぬかるんでいるけれど、跳ねる泥を気にすることもなく、走っていく。
 出口で一度立ち止まり、振り返る。
 あかねは、笑って手を振った。
 幼い自分もまた、笑顔を浮かべ。

 そしてアジサイの生垣に姿を隠した。



 はあ……。
 思わず溜め息がもれて、そして気づいた。
「──いけない、忘れてた」
 あかねは手に握り締めていた、小さな名札を慌てて見る。あのカッパにかろうじてくっついていた名札は、泥を叩いているときに取れてしまっていたのだ。
 それを拾って、あとでカッパの内ポケットにでも入れておこうと思っていたのに。
 小さな子供の足だ。今、公園を出たばかりだから、きっと追いつくはず。
 深く考えず、あかねは後を追い、公園を出てアジサイの脇を通り、家の方向へ角を曲がって、そこで止まった。




 ここからしばらくは一本道。
 向こうの塀まで見える場所。
 だというのに、そこには誰もいなかったのだ。
 つい今さっき走りでたはずの小さな自分は、じゃあどこへ行ってしまったんだろう──。
 そう考えた後で、思いなおす。

(どこへ行ったもなにも、昔の自分に出くわすなんてことの方がおかしいじゃない……)

 一体、どういった具合なんだろう。
 あかねはそのまま立ち尽くしていた。
 もしも、小さな自分と一緒に公園を出ていたら。
 そうしていれば、ひょっとしたら消えずに一緒にいられたのだろうか。
 だけど、そうして着く先は、一体どこなんだろう?
 今の家なのか。それとも、幼稚園の頃の家なのか。
 入り込んだのは、自分の方なのか、それとも過去の記憶の方なのか。
 ごくり──と、唾を呑む。
 もし、自分こそが過去に迷い込んでいたのだとしたら。
 もし、そうだったとしたら……。
 手をぎゅっと握り締める。ビニール製の名札が、チクリと肌に刺さる。

(──おかあさん)

 会えたのだろうか。
 おかあさんに。
 もう一度。

 ドクリ──と、心臓が音を立てた。



 あかねは足を踏み出す。
 家の方角へ向けて。

 母の字をきつく握り締め。
 震える唇を噛み締め。
 おそるおそる、歩き出す。

 一歩、一歩。


























8  狐の嫁入り



 踏み出す足元には、キラキラ光る水たまり。
 雲が途切れ、合間から光が降りてくる。
 空を映す水たまりには、それでも小さく雨の波紋が広がっていく。
 天気雨。

 ぱしゃ……


 それに気づいているのかいないのか。
 少女がふらふらと歩いていく。
 水たまりに盛大に足を踏み下ろして、靴下を塗らしてしまったことにも、気づいたようには見受けられない。
 ぼんやりと前だけを見て歩いていた少女は、曲がり角で立ち止まった。
 そこから動かない。
 道に迷ったわけではないだろう。ここは彼女の家の近くで、毎日通る、日常の場所だから。
 ここを左に曲がれば、天道道場。
 そこが、彼女の家だ。
 けれど、少女は動こうとはしなかった。
 動くことを恐れてすらいるようだった。
 胸に当てた手を、ぎゅっと握り締める。
 なにかを悔やむように唇を噛む。
 なにかを迷うように眉根を寄せる。
 なにかを振り切るように、頭を振ると、

 元来た道を戻り始めた。




 走りながら、思った。

 ここはどこだろう?

 誰も通らないのは何故だろう?

 あたしの知っている場所じゃないみたいだ。


 ここに居てはいけないと思った。
 元の場所に帰ろうと、そう思った。

 見慣れた場所が、風景が。
 急に色褪せて見えた。
 知っているはずの場所が、知らない場所のような気がした。
 まだ湿り気の残る空気が、頬を撫でる。
 空を切る腕を、足を、そっと撫でていく。
 ごくりっと唾を呑んだ。
 その音が、大きく脳内に木霊する。

 誰もいない場所。

 はあ……と、大きく息をついた。
 吐息が虚空に溶ける様が見えるような気がして、頭を振る。
 大きく首を横に振って、前を向いた。
 まっすぐに伸びる道が歪んで見える。
 在りあえない。
 また頭を振った。
 短く切りそろえた髪が頬に当たり、首筋をくすぐる。
 それすらも幻想のように感じられる自分が、どこまでも恐ろしかった。

 ダレモイナイバショ。

 張り裂けそうな胸の奥。
 肺の中の空気を根こそぎ持っていかれるような気がして、あかねは喘ぐ。

 走る、走る、走る走る走る走るはしるはしるハシルハシル……




 走って、走って。
 なにも考えず、なにも感じられないまま、惰性のように足を動かし続けて、はじめの公園へ辿り着いた。
 けれど、辿りついた途端、今度はそこへ入ることを躊躇った。
 幼い頃から見知った公園が、ひどく恐ろしい場所に感じられた。
 足を踏み入れると、また違う「自分」に出遭ってしまうかもしれない。
 ドッペルゲンガー。
 自分じゃない自分。
 もう一人の自分。
 それに出会うとき、

 人は、死ぬ。


 雨が、肩をぬらす。
 雨が、頬をぬらす。
 明るい陽射しの中、雨が降る。
 天気雨。
 狐の嫁入り。

 揺れる狐火は、死者の魂──


 息を呑み、

 あかねは、踵を返した。


























9  降水確率



 ──と、なにかにぶつかった。
 前を見る余裕すらなかったあかねは、避ける間も、衝撃に対する準備もなく、よろめく。
 後ろへと崩れそうになる身体。
 空を、手が泳ぐ。
 その手を、勢いよく引かれた。

 とっさに撥ねのける。

 恐い。

 頭を支配したのは、恐怖だった。
 誰もいなかった世界に、途端現れた「誰か」
 そしてその「誰か」が手を引くこと。
 それはすなわち、自分を別の世界へと引きずり込む「幻想の入口」であるかのように思えたのだ。
 水たまりに沈む。
 違う世界への入口。

「……いや、離してっ!」

 悲鳴のような声がもれた。
 だが、相手の力は思いのほか強い。

 離れない。

 足元からせり上がってくる恐怖。
 身をよじり、身体を引き、がむしゃらに逃れようと手を払う。
 情けない。武道家のくせに──
 片隅で心が告げる。
 これじゃあ、小さな子供の時と同じじゃない。
 弱い自分を責めるように、声を張り上げた。
「離してよっ!」
「──なんだよ、せっかく人が助けてやったってのに」
 聞こえた声に、引きつっていた身体が止まる。
 おそるおそる顔をあげ、目を開けると、見慣れた姿がそこにあった。
「……乱、馬?」
 どうして──、と小さく言葉がもれる。それを受けて、乱馬がむっとした顔で答えた。
「しょーがねーだろ、家、どこもかしこも鍵かかってるし、呼んでも返事ねーし、二階も全部閉まってるし、おめーの部屋見てもいねーし」
「の、覗き見するなんて──」
「いるのかいねーのか、見ねーとわかんねーだろが」
「声かければいいじゃない」
「返事しねーから、確認したんじゃねーか」
「返事がないなら、いないに決まってるじゃないの」
「わざとしなかったかもしれねーだろが」
 なんでそんなことする必要が──。
 そう言いかけて思い出した。
 そうだ、喧嘩してたんだ、乱馬と。
 昨夜は口も聞かずに夕飯を食べて、その後すぐ部屋に入って、顔も合わさないようにしてお風呂に入って。
 そうしてすれ違いのまま朝を迎え、目覚めた時にはもう、早乙女親子はいなかったのだ。

 乱馬は、当たり前だけど女の姿でそこに立っている。
 随分と濡れていた。
 いつからなんだろう。
 いつ帰ってきて、そして雨宿りもせずに、こうして外にいて……

「あんた、馬鹿じゃないの!? だったら家で待ってればいいじゃない。雨の当たらないところぐらい、いくらだってあるじゃないのっ」
「……なに怒ってんだよ」
「怒ってなんかない、呆れてんのよっ」
「──じゃあ、なんで泣いてんだよ」
「泣いてなんか──」
 声が乱れて、口を閉ざした。
 泣いてなんてない。
 頬をぬらすこれは、涙なんかじゃなくて、雨粒なんだから。
 下を向いて黙り込んだあかねを見て、乱馬はそっと溜め息をついた。
 あんなに寂しそうに立っていて、自分で泣いていることにすら気づいてなくて。
 どこまで意地っ張りなんだろうか。
 ここでなにかを言ってもきっとあかねのことだから、余計に頑なになるだけだろう。
 乱馬は言った。

「アジサイ、まだ咲いてねーな」
「…………嘘、だって──」

 あかねは慌てて公園を見た。
 道沿いに植えられているアジサイ。
 たしかにそれは、また咲いてはいなかった。

「──だって、さっきは……」

 やっぱりあれは、過去だったのだろうか。
 たくさん咲いていた、あのアジサイの群れ。
 幻──?

「賭け、忘れてねーだろーな」
 後ろから、乱馬の声がした。
 何色が咲くのか、勝負。
 ふたつにひとつ。
 そんな勝負。
 だけど、選択肢はふたつだけじゃない。
 あれだけたくさんの色があったのだ。
 あたしと、乱馬と。二人が勝負した色じゃない、まったく別のものだって、咲くかもしれない。
 ううん、きっと咲く。
 可能性は無限大だ。

「忘れてなんてないわよ。でも、勝負の内容、変えようよ」
「はあ? もともと、おめーが言い出したんだろうが」
「だから、あたしが変えるの。何色が咲くかじゃなくって、いくつの色が咲くか。そっちで勝負」
「色の数? んなもん、微妙に違うもん合わせたら、いくつあるのかなんてわかんねーじゃねえか」
 呆れた声で乱馬が言って、あかねは笑顔を返した。


























10  虹



「なあ、さっき、何を埋めてたんだよ」
「ん、ちょっと──ね」
「ちょっと、なんだよ」
「んー。思い出……かな」
「思い出だ?」
「そう、大事な思い出で、宝物」

 握り締めていたあの切れ端は、まるであかねの手の中で時を重ねたかのように、色褪せていた。
 名前すら、もうよく見えないくらいに。
 あかねはそれを、アジサイの下にこっそりと埋めたのだ。
 過去は過去で、今は今。
 自分が帰る家は、今の天道道場。
 あの頃のままでは、もういられないんだから。

 あのアジサイはどんな色を咲かせるだろう。
 咲くのならば、たくさんの色がいい。
 赤も、青も、紫も、ピンクも、黄色も。
 虹みたいに、たくさんの色が集まればいいのに。

「贅沢モンだな、おめー」
「いいじゃない。そうなればいいなーっていうだけで、本当にそうなるだなんて、思ってないわよ」
 すっかり晴れた空の下、公園を後にして家路を辿る。
 大好きな父や母の代わりに、
 いつまでたってもどっちつかずな「許婚」と一緒に。
 しばらく歩いた後に、隣を歩く乱馬がぽつりと言った。
「でもまあ、虹みてーになるかもしれねーな」
「…………?」
「だって、宝を埋めたって、言ってたじゃねえか」
 そしてこちらを見ようともせず、前を向いたままで続けた。
「虹の麓には、宝もんが埋まってるんだろ?」
「──なに、それ。なんで乱馬がそんなこと知ってるのよ」
 乱馬らしからぬロマンチックな例えに、あかねは目を見開いて驚いた。
 すると、憮然とした顔で乱馬が返す。
「なんでって……、おまえが言ったんだろーが、前に」
「──覚えてた、の……?」
「覚えてちゃ悪いかよ」
「そうじゃない、けど……」

 口を閉ざして隣をこっそり見上げる。
 背負った大きな荷で、顔はよく見えない。
 だけど、今はそれが逆にありがたいと思った。
 今のこの顔は、あんまり見られたくない。
 きっとものすごく変な顔をしているから。

 ゆるむ頬を手で押さえ、あかねは笑みを殺す。
 いつだったか、こうやって雨上がり、二人で歩いた。
 雨が急に降り出して、かと思ったらあっという間に晴れてしまって。
 あの時も、大きな虹が空にかかっていた。
 虹に向かって、二人で歩いた。
 こうして家に向かって歩いていて、そのことをなんとなく思い出していて。
 乱馬もまた同じように、そのことを思い出していたのかと思うと、おかしくてたまらない。

 嬉しくて、たまらない。


「なにがおかしーだよ」
「なんでもなーい」

 青い空に、半円の虹がかかる。
 虹の麓には行けないけれど、
 虹がかかる空の下を、歩いていける。

 乱馬と二人。



 門をくぐって、あたしは玄関を開けた。


 ただいま。
 おかあさん。




















「梅雨更新」ということで、十日間やってました。
サーバーのせいでアップロード出来ないというトラブルに別鯖で対応したり――と、
春に準備が終わっていたとはいえ、更新自体には色々と問題が発生したお話。

やっぱり、ここ数ヶ月以上も「小説」と呼べそうな文章を書いてなかったから、驚かれたのかもしれない。

慣れないことはするもんじゃない――という、いい教訓(汗)

【2005.06.10〜06.19】