魔法のレシピ
魔法のレシピ
「あかねは肩に力が入りすぎてるのよ」
長姉はそう言って、軽やかな手つきでボウルの中身を混ぜた。
くるくると小刻み良く回転する手から作り出される蜜色のたねがオーブンで膨らんでいく様は、あかねの目には魔法のように見える。
自分がやっても決してそうはならない。
ケーキを作っても膨らまないし、ゼリーを作っても液体のままだ。
「どうやって作れば、んなモンが出来るんだよ」
乱馬はそう言うけれど、正直それはあかね自身が知りたいことである。
いつだって、どんな時だって、手を抜いて作ったことなどない。
全力投球だ。
力が入っているというけれど、その力の抜き方がわからなかった。
一生懸命やろうとする。
下手だからこそ、今度こそちゃんとやろうと思う。
その結果、力が入る。
その繰り返し。
悪循環なのである。
今日だってそうだ。
テーブルの上には、かすみの作ったマドレーヌと、あかねのカップケーキがある。
きつね色に焼けたマドレーヌの隣にある、ごつごつした自分の作品。
「岩みてーだな」と笑った乱馬に一撃加えたけれど、その指摘はあながち間違ってはいない。
カップに鎮座している、凹凸の激しいお菓子。
表面のブツブツ。混ざりきっていない薄力粉の名残がクレーターを形成しているし、飾りにと載せたつもりのレーズンは、底に沈んで見えていない。ケーキだねの入れすぎでカップから溢れ出し、まるで溶岩が冷えて固まったかのような状態である。
「お茶がおいしいねえ。かすみ、おかわり」
「おとうさん、あかねのお菓子も食べれば?」
「いいわよ、自分で食べるからっ!」
「天道あかねがこの僕のために作った物、食してあげようぞ」
いづこともなく出現した九能が、ヒヨコ柄の前掛けを着用しがふりとその岩──もといカップケーキにかぶりつく。喉を通った後、能面の如く顔が硬直し、直立の姿勢のまま身体が傾いで畳の上に倒れた。
「九能ちゃーん、大丈夫ー?」
傍らにしゃがみこみ、額をぺちぺちと叩くなびき。「あらあら大変」とかすみがぱたぱたと廊下を走り、男親二人は縁側で将棋を始める。そしてティータイムはうやむやのうちに幕を閉じるのだ。
いつのもことに過ぎないけれど、それでも今日ばかりはひどく気が重い。
先日のクッキーは見事に玉砕した。
昼食に気を取られるあまり、オーブンをおろそかにしたのが間違いだったと思う。気づくとクッキーはキツネ色を通り越して黒糖色に達していた。それでも食べられないことはないだろうと思って皿に盛って出したけれどそれは手付かずとなってしまった。乱馬の口に入ることはなかったのだ。
仕方がないから自分で食べてみて、顔をしかめた。
苦いし、煎餅のように固いし、おまけに粉っぽい。
柔らかいのもあれば、それは妙に生っぽく、それでいて下だけががちがちに固かったりもする。
悲惨だった。
乱馬が食べなくてよかったと思った。
それでも食べてほしかったなとも思う。
なんだか矛盾した気持ちだった。
紙ナプキンを被せてある手製のカップケーキ。
自室の机の上でそれを横目にしながら、あかねは本をめくる。
「わかりやすい」という文句に惹かれて買ってしまった本だ。表紙のチーズケーキは、表面にたっぷりと塗られたアプリコットジャムの甘い味を舌の上に想像させるくらいに甘美さを放つ。
(やっぱりあたしには無理なのかなあ……)
ぱらぱらとめくりながら独白していた時、はらりと一枚の紙が床に落ちた。
本の間に挟まっていたらしい一枚の紙。
ただの広告だろうと気にも止めていなかったけれど、拾い上げたあかねの瞳にその文字が飛び込んできた。
「──魔法のレシピ?」
*
<いつもいつも失敗ばかりしている貴女、もう一度原点に帰ってみませんか?>
・必要な器具は準備しておきましょう
・材料は前もってきちんと計量して並べておきましょう
・オーブンの余熱を忘れずに
表紙をめくるとまずその文字が真ん中に大きく書かれている。
普段の自分を思い返してみては、いつもバタバタと慌てふためいていたことに気づいて納得する。
(そうよ、全部ちゃんと用意しておけば、その場でやらなくてもいいんだわ)
当たり前のことであるが、その当たり前が命取りになるのが調理である。こと天道あかねにとっては一番重要な事柄でもあるであろう。裏を見て価格に少しうなったけれど、結局買って帰りこうして台所を陣取っている。
彼女にしては珍しく、真剣な面持ちで秤を凝視する。
じりじりと微妙に振れる針。
少し足りないとみては小匙で加え、必要な目盛りを上回るとすくう作業をそれぞれの材料ごとに行っていく。
細かな作業が苦手なあかねにしては、これはそうとうに苦痛である。
右上から順に番号がふられているレシピ。ところどころにワンポイントアドバイスとして「ここに気をつけよう」といった注意が促されており、それをふんふんと頷きながら慎重に手順を重ねていく。
今まで「こんな感じよね」とか「こんなもんでいいか」とかさらには「こうしてみようか」だのと考えていたものであるが、今日はそれは止めにしようと心に固く誓っている。
レシピを睨むようにして首っ引きになっていると、だんだんワクワクしてくる。
載っている写真のように、手元のたねが変化していくのがわかるのだ。
嬉しい発見だった。
いつもいつも、どうしても本に書かれている通りにならなかったことが嘘のようだった。
楽しいと思った。
今日ばかりはレンジもオーブンも爆発する気がまるでしなかった。
そうして出来上がったものを焼く。
余熱、温度、上火下火
本の通りにした──と思う。
完璧なはずであるが、前回の失敗からあかねはオーブンの前から離れない。敵対するように仁王立ちで挑んでいる。
「あかね、少し休憩すれば?」
「うん、これ終わってから」
「ちょっと、お買い物に行ってくるわね」
「うん、わかった」
覗きにやって来たかすみにも上の空で言葉を返す。彼女の全ての注意はお菓子にしか向いていない。何かを両立させて行うことが出来る程、彼女は器用ではなかった。
やがて香ばしい匂いが漂いはじめ、あかねは恐る恐るオーブンを開き、天板を引き出す。
端の方にあるのは少し焦げているけれど、この間ほどではない。真ん中辺りなぞは惚れ惚れするほどの色合いだった。
ごくりと唾を呑み込んで、あかねは震える手でまだ熱いクッキーに手を伸ばし、かっと目を見開いた。
大皿に盛ったクッキーを手に、廊下を歩く。
その足取りはいつになく軽く、リズミカルだ。
がらりと障子を開ける。
がらんと静まり返っている居間。
「どこ行ったのよ……」
口を尖らせ、手にしたままのクッキー皿をひとまず机に置いた刹那、背後に感じた気配に振り返り、脇にあったポットを振りかぶる。
後頭部にみしりとめりこませ、廊下に沈んだ乱馬のおさげをむんずと掴み、その顔を仰がせる。
「ねえ、乱馬。クッキー食べない?」
「いらねえ」
「なんでよ」
「なんでっておめえ」
「今度は大丈夫なの」
「…………」
その言葉を何度聞いただろうかと乱馬は考え、数秒の後に重い息をつく。
無駄な思考だ。
根拠のない自信でもって料理を作り、その度にその独特の味に脳天をやられてきたのは思い返すに忍びない壮絶な記憶なのだ。
引きずられるように部屋に押しやられ、無理やり座らされた目の前に、どんとそれは鎮座していた。
大きな手で、クッキーの山のひとつを取り上げる。まだ温かいそれは、非常に珍しいことにいい匂いがした。
「クッキーの匂いがする」
「クッキーだもん」
隣に座るあかねが、お茶を注いだ湯のみを手渡しながらそう言った。
小さな一欠けを見つめ、うーむと唸る乱馬の傍らでは、あかねもまたじっとその欠片を──ひいてはそれを口にする瞬間の乱馬の姿を捉えようとじっと見つめてくる。
机の上のお茶が温かな湯気を漂わせている。
強くなった真昼の陽射しが、部屋を刺す。
穏やかな午後の昼下がり。
「──さっさと食べなさいよ」
胸像のように動かない乱馬に向かい、あかねが低く呟く。
危険信号
暴風波浪注意報
返事の仕方によっては注意報が警報に切り変わるだろう。
居を決して、乱馬はそれを口に入れた。
奥歯で噛み砕いて、ごくりと喉を通っていく様子をあかねは息を呑んで見守る。
乱馬はなんて言うだろう?
おいしいって言ってくれるかな?
その乱馬はといえばコンマ一秒ほど止まり、考え、そしてもう一度手を伸ばし、今度は二つほどを一気に口にする。
何も言わない少年に、自分からは訊ねまいと思っていたにもかかわらず、つい問いかけてしまう。
「ねえ、おいしい?」
「──まあ……」
「まあ?」
「普通なんじゃねえの?」
ぶっきらぼうにそう言うと、再び手を伸ばす。
「旨い」とか「おいしい」とか、そう言われることをどこか期待していたあかねであるから、その答えにはいささかむっとする。けれど、飽くことなく自分の作った物に手を伸ばし続けている姿を見ていると、顔がほころんでくる。
少なくとも「まずい」とは思っていないのはたしかなのだ。
「にしてもよー」
「なあに?」
「このいびつな形はなんなんだよ」
「だって、型から綺麗に抜けなかったんだもん」
かすみが用意してくれたクッキーの型。
伸ばした生地を刳り抜いたのはいいが、そこから剥がすのに苦労を強いられた。無理にのけようとしては生地が伸び、また切れた。同じヒヨコの型から生まれたクッキーが、胴長だったり尾が長かったり、はたまた首が切断されていたりするのはこのせいである。
ついでに言えば、生地の伸ばし具合も非常にまばらで、クッキーの厚さはどれもこれもまちまちだ。焼きムラが出来るのはひとえにこのせいであろう。
「あかね」
「なあに?」
「お茶、おかわり」
「うん」
あかねの部屋。
よく手にする雑誌や教科書、参考書がある本棚に、その本はある。
何度も手に取りページを開き、手垢にまみれ、いつしかその手順を必要としなくなる時が来ても。
その本は、たくさんの笑顔と涙とともに、そこに在り続ける。
いい思い出とわるい思い出と、
その全てが輝く、かけがえのない宝物。
いつまでも、いつまでも、色褪せることのない記憶とともに在る。
まるで、魔法のように。
料理がヘタである、というのはわかりますが、なにがダメでそうなるのだろうか?と考えました。
とりあえず、あかねの失敗というのは「計量しないこと」「本にない味つけ(隠し味)をしてみようと思うこと」につきると思われます。そんなわけで何が失敗に結びつくのかを書いてみようと思いました。
案外、難しいよねお菓子作りって。思ったより膨らまないし、膨れても冷えたらしぼむしさ。シュー皮は一度でもオーブン開けるともう膨らまないし。
【2003.07】