Spring comes here
 

 Spring comes here





 寒い日が続いたと思えば、ふと温かさを覚える一時があり。かと思えばまた寒くなる。
 春を待つ三月の空気は、いつもどっちつかずだとあかねは思う。



 失敗したなあ……。
 灰色の空を見上げて吐いた息は白く立ち昇り、冷たい風がそれを横へとなびかせる。吹き込んだ風でスカートがふわりと浮かび、ひやりとした空気が足元から這い上がった。
 マフラーに首をうめこむようにして身を竦ませ、しっとりとした手袋で口元を覆う。乾かすように何度か吐息を吹きかけてみるけれど、湿気はなかなかに頑固者だ。
 どこからともなく現れた黒い雲はあっという間に空を覆い、結果細い雨となり、そうしていつしか雪に変わり、あかねはそんな空を見上げている。目の前に来ると真っ白な雪は、見上げるとまるでゴミのように見えるのはどうしてだろう。灰色の雲からハラハラと降りてくるそれは、お世辞にも「綺麗」だとは思えない。なのに、顔の位置を元に戻してみると、降りてくるのは白い粒。人間の視覚なんて、随分といいかげんだ。
 人は、見たいものを見るように出来ているのかもしれない。
 こうでありたい。こうであってほしい。
 そう望むことによって、そう見えてくる。
 度をすぎれば「幻覚」になってしまいそうではあるが、そういう風に「気持ち」に左右されることというのはたくさんあるはずだ。そうしてそれに溺れ、抜け出さなくてはならないことをわかっていてなお、抜け出すことができなかったりもする。
 女心を秋空に例えることがあるけれど、そんなのきっと嘘だ。
 あかねは思う。
 この気持ちは、冬の空。
 厚い雲に覆われて、凍てつくような氷の涙を降らす。
 片思いは、雪雲に似ている。冬そのものだ。
 そう思ったあとで、否定する。
 違う、冬は待っていれば春が来るけれど、あたしの気持ちに春なんて来ない。
 風が長い髪をさらい、掻き乱す。セットしていた髪は雨に濡れ、雪で冷え、ぐちゃぐちゃな気持ちそのもの。
 止みそうもない雪をうらめしそうに睨みながら、あかねは店の壁にもたれる。じんわりと冷たいコンクリートの壁が、少しだけ心を落ち着かせてくれる気がした。
 家に電話して迎えに来てもらうのは、もう少し待ってからにしよう。
 自分に言い訳をするように呟いた。
 もう少し待てば、止むかもしれないじゃない。
 わざわざ来てもらうことなんてないもの。
 今の気持ちのまま、かすみと二人で家路を辿るのは、なんだかやるせなくて、きっと自分は嫌な態度をとってしまうに違いない。わざと怒ってみせたり、もしくは無意味にはしゃいでみたり。
 自分をきっと偽って、それが返って不自然に感じられるかもしれないから。



 くしゅん。


 頬を刺した風がくしゃみをもたらした。誘発されるように連続してくしゃみをして、コートの上から腕をさすった。
 ぼーっと考えていたせいで気づいてなかったけれど、いつの間にか雪は数センチほどにまで到達しているようだ。見上げてみると雪の粒は数を増したように感じられる。
 このまま待ってても仕方ない、走って帰ろうか──。
 靴は水分を含んで冷たくなっている。指の先がじんじんと冷たい。外気温も随分と下がっているのだろう。厚手のコートですら冷気を放っているように思える。
 あかねはマフラーを巻きなおした。
 短い髪から見える首筋をカバーするため、長いマフラーをもう一巡させる。自分で自分の首をしめてるみたいで、ちょっとばかり息苦しいけれど、寒さにはかえられない。
 こんな時ばかりは、前の長い髪を恋しく思う。あれは随分と温かかった。
(重く感じる時もあるにはあったけどね……)
 ついさっきまで思い出していた、まだ髪が長かった頃。今と同じようにこの店先で雪が止むのを待っていたあの時のこと。
 あの時はたしか、通りかかった女友達が家の近くまで傘に入れてくれたのだが、夕方に向かい今の時間帯、この天候のせいか、普段にも増して人通りが少ない。
 はあ……と、大きく息をつく。
 まっしろい息を吐き出して、あかねはいざ前方を見て足を踏み出し、一歩で立ち止まった。
 雪の向こうからこちらに人が歩いてくる。
 口を尖らせて、不機嫌そうな顔をして歩いてくるのが見える。
 目の前にまでやってきてもなお表情を崩さない様子を見て、あかねはわざとぶっきらぼうに問いかけた。
「なにしてんのよ、乱馬」
「なにって、おめーが遅ーからおれが出てくる羽目になったんだろーが」
 さらに暗くなりはじめた空の下、大きな黒い傘に積もる雪を重そうに揺らして落としながら立っている乱馬の真意は、よくわからない。本当に迷惑がっているようにも見えるし、それなりに心配してくれているような気もする。まるで、どっちつかずな三月の空気みたいだ。
 少しだけ積もった雪に足を落とす。ゆっくりと足をあげ、次の場所へと下ろす。両手を広げてバランスを取りながら、一歩二歩と足跡をつけてゆく。下を見ながら足を落とす。降る雪が頬をかすめて地に落ちていくのを捉えながら、足跡のついてない場所へと歩いていく。
「なにやってんだ、おめーは」
 うしろから乱馬の声がする。振り返ると今度は呆れたような顔に出会う。目が合うと、彼はあかねの赤い傘を差し出した。
 赤い傘と、乱馬の顔をしばらく交互で見つめる。
 ぽそっと、傘に積もった雪が落ちたのをキッカケに、あかねは乱馬の傘に入る。途端、ぎょっとしたような顔と声で乱馬が言った。
「な、なんだよ」
「だって──」
「だって、なんだよ」
「重そうなんだもん」
「──はあ?」
「だから、傘。雪で重そう」
 手も冷たいし、傘持つの大変だから。だから、あんたが持っててよ。
 下から見上げてそう言うと、ぐっとなにかが喉につまったような顔をして、いつもの不機嫌顔で横を向いた。
 返事はないけれど、その顔がきっと返事。

 あの時、あの頃の自分は冬空の下でなにを思っていたのだろう。
 一人で合点して、わかったようなふりをして、独りよがりで内にこもって、勝手に拗ねていた。まるで小さな子供みたいに。

 雪はいつしか雨へと姿を変え始めている。足元では雪が雨に流れ、いくつもの足跡の泥に流れていく。
 いつもよりもずっと高い位置から、傘を弾く雨音が途切れなく響く。
 指先を擦り合わせるようにして、吐いた息で手袋を温める。息は、少しだけ白く濁る。ほんのりと湯気が立つ程度に揺らめいて消える。
 さっきよりも寒くないと感じるわけは、雪が雨へと変わったせいではなく、今が一人じゃないことなんだろう。
 女友達と歩くとは違うぬくもり。



 雨をひとつ越えるたび、冬の壁をひとつ壊してゆく。
 あたしの中にある壁も、そうやって一枚ずつ壊れていけばいい。
 何重にも偽装して重なっているけど、雨が溶かしていけばいい。

 その先にはきっと、温かい場所が待っている。














【2005.03.05】