鳥の如く羽ばたくもの


    ある親子の場合




「鳶が鷹を生む」

 親からは及びもつかない優れた子供が生まれたことをそう称するのを知ったのは、いつだっただろうか。
 修行であちこちを転々としていた頃。
 まだ幼い自分を見て優しく声をかけてくれる女性達は、父親と並ぶ自分を見ると愛想よく笑うけれど、父がいなくなると「似てない親子ね」とこっそり囁き合っている。
 そんな時、実はちょっと寂しくなった。
 自分には「おかあさん」という人がどうやらいないらしい──というのは自覚していたけれど、いつも父親と一緒だったから、特別それを「哀しい」とは思わなかったし、そもそも「いた」経験がないものだから、「おかあさん」の具体的な知識に欠けていた。
 たまに耳に入る話や、声をかけてくる女の人みたいなのが、「おかあさん」なんだろうと、なんとなく想像してみる。それだけだった。

 おとうちゃんがいるから、べつにいいや。

 ひょっとしたら半分強がりだったのかもしれないが、まだ純粋に「可愛らしい男の子」であった早乙女乱馬くん(当時推定5歳)は、そう思っていたから、そんな唯一の存在である父親と「似てない」と称されることは、ちょっぴりショッキングだったのだ。

 じゃあ、おれはだれなんだよ。

 自己の存在にひそかに思いを馳せたりしていた幼児は、だがいつの頃からか、似ていないことがひそかな自慢となりはじめる。


 可愛らしいわね。
 将来いい男になるわよ、
 あらあら、とっても強いのね。
 男の子は元気が一番だわ。

 ご近所のお母様方の小さなアイドルと化した「いたいけな幼児」は、若干「したたかな童子」へと変貌する。

 おやじは鳶だけど、おれは鷹なんだ。
 おれはおやじみてーにはならねーんだ。

 アイデンティティの確立であった。



「鳶に油揚げをさらわれる」という言葉を知り、その意味が「いきなり横合いから大事な物を奪われること」を言うのだと教わったとき。  いつもいつも自分の食べ物を横取りする父親はやっぱり「鳶」なんだと、確信した。
 いつもいつも負けてしまうけれど、いつかきっと大きくなって力も強くなって偉くなって、そしておれがおやじから取り上げるんだ!  子供なりに真剣に野望に燃えていた、八歳の春。
 時を重ね、成長を遂げる中、それでも反発心と、自分は「鷹」であるという自負が、少年を形成する。
 かくして、「決して早乙女玄馬には似ても似つかないいい男」(自称)である早乙女乱馬(現在、当年とって十六歳)は、本日も鳶に負けない鷹として、鍛錬を重ねている。



「おやじ、てめー、おれの肉まん返せっ!」
「油断大敵、火がボーボーじゃわい。隙を見せたおまえが悪い」
「てめー……。あ、百円落ちてる!」
「なにを、わしのじゃぞい」
「隙ありっ!」
「こりゃ、なにをする乱馬」
「隙があるのが悪ぃーんだろ」
「父に対してこの振る舞い。ええい、嘆かわしい。かくなる上は、正々堂々と勝負せい」
「なにが正々堂々だよ。最初に卑怯な手を使ったのがてめーの方だろうが」

 廊下を走り、庭先で肉まんを争う親と子。

「鳶が鷹を生むっていうけど……」
「蛙の子は蛙よね」

 居間からその様子を眺めていた天道姉妹は、呆れたように呟いた。
























2005年のお正月に開催したお年玉企画。
「ミニミニ閑古鳥祭り」という正式名称を何人がわかってたのかは疑問ですが(苦笑)
その時にうちで使っていた「鳥にまつわるSS」です。
掲載にあたって、適当にタイトルをつけてみました。