今日も元気に梅干日和
今日も元気に梅干日和
目蓋を開けると、そこは白い世界だった。
窓は真っ白なカーテンで覆われているけれど、そこから溢れる光を受け止めきれず、輝かしい陽光が洩れている。
一部、重なりきれていない部分から、光が走り。
モルタルの床に真っ直ぐに伸びたそれは、己が横たわるベッドの上に達し、温かなぬくもりを作っていた。
適度にノリのきいた真っ白なシーツ。ベッドを囲うように蛇腹のアコーディオンカーテンが半分ほど迫り出しており横を見ることは叶わなかったけれど、ようやく回りはじめた頭の片隅で、ぼんやりながら事情を把握した。
そうか、ここは病院か──。
安堵か、失望か。
どちらなのか判断のつかない溜息を洩らし、天道早雲は今一度、瞳を閉じた。
それはそう。
俗に言う「運命のイタズラ」というやつではなかろうか。
寒さを増す昨今。
陽射しも穏やかで、窓を鳴らし、木々を揺らす風すらも、柔らかく感じられるような――そんな好天気。
迷惑をかける師匠がいなければ、家を破壊する親友とその息子はどこかへ修行中――と称して、父親の方はなにをしているのか定かではないが――、至極のどかな一日となるはずだった。
ただ、なにか台所方面で不穏な空気を感じ取った時にはもう遅かった。
手遅れだったのだ。
「あたし、友達と約束あるから」
そう言って早々に出て行った次女は、我が娘ながらどこまで勘がするどいのだろうか。
もしかして――と思った時には、末娘はもう「なにか」を抱えて居間にいた。
新しい料理の本を買ったから、ためしに作ってみたのだと、ひどく嬉しそうに笑っていたが、一体なにを作ろうとしていたのかは、滲む視界では上手く認識できなかった。
嬉し泣き。
そういうことにしておこう。
普段ならば、末娘の料理の犠牲――もとい、餌食――でもなく、実験台――……。
まあ、どうでもいい。
とにかく「食べる」のは彼に押し付け……いや、譲ってあげていたのであるが、運のいいことに不在。
ああ、かすみはどこに行ったんだろう。早く帰ってきておくれ――
引きつる頬を総動員して、なんとか口を上げて「微笑み」という形を作ってみたけれど、果たしてそれはどこまで成功していたのだろうか。
記憶がない。
次に認識しているのは、目の前に広がる「白い天井」だったからだ。
「おとうさん」
「おじさん、生きてってか?」
「やあ、あかねに乱馬くん」
ちょうど昼食という時間に見舞いに訪れた二人に、早雲は弱々しいながらも笑みを返した。
心配そうな娘とは裏腹に、その隣にいる少年は「気の毒」そうな顔をしていた。それと同時にどこか「面白がってる」様子も見え、つくづく「早乙女玄馬」という己の友に似通った部分を見出す。
紙袋に入れて持参した着替えを、ベッド脇に備え付けてある棚に仕舞い、重ねてある洗濯物と中身を入れ替えている様子を面白そうに見やる少年に、早雲は声をかける。
「乱馬くん。荷物を下ろしたらどうかね?」
「んあ、ああ。そうだ、これはおじさんに差し入れ」
「差し入れ?」
「梅干。うちで漬けたやつ、おとうさん好きでしょう? かすみおねえちゃんが持っていってあげて――って」
あかねが振り返って笑った。
おかゆばかりで味気ない――と漏らしていたことを、こうしてきちんと気にかけてくれたらしい。そんな娘の優しさに、父は胸がほんのり熱くなった。
「おじさんも災難だよなー」
「災難って、なによ」
「だって、おめーの料理喰ったせいで入院だろ? そのうえ……」
「どーゆー意味よ!」
「――いやあ、最近体調が良くなかったのは確かなんだよ」
父は慌てて取り繕った。そして乱馬から受け取った容器の蓋を開け、梅干をふたつみっつ取り出すと、食べかけだったおかゆの上に乗せ、食事を再開する。
家にいる時は、当たり前のように食卓に常備されている「梅干」であるが、こうして病院の床で食べると、またなにやら違う感慨というものがこみ上げてくる。
家庭の味。とでもいうのだろうか。
なんだかじんわりとして、彼はそれを梅干のすっぱさのせいにした。
ゴフッ――
唐突に、音がした。
なにかが喉の奥に詰まったような、音。
「大丈夫ですかな?」
早雲は、前の老人に声をかけた。
ちょうど己と向かい合うベッドにいる、か細い老人は、どこが悪いのかは知らないけれど――年も年だし、具体的に「どこが」悪いというわけでもないのかもしれない――、この部屋に入院した時から、時折ああやって咳き込んだような声を漏らすのだ。
器官になにか詰まったのか。
だとしたら、生命に関わるような気がする。
ヤバイんじゃないだろうか――。
夜間、時々寝息が絶えるとき、早雲は背筋が凍る。
看護婦さんと医者がバタバタと走ってくる時もあり、実は精神的に疲れているのはそっちの影響が強かったりもした。
「あ、なあ、あかね。あのじじい……」
「――ほんとだ」
「知ってるのかね?」
目を見張った二人に、早雲は声をかけた。
「うん、ほら、前に話したでしょう? 倒れてるおじいさんを病院に連れて行ったーって」
「ああ、じゃあ、あのご老人がそうだったのかね」
「たぶん。でも、元気になったのね」
「よー、じーさん。元気になってよかったな」
「……へい、ありが……ござ……した」
「心配してたんですよ、でも本当によかった」
二人に声をかけられて、老人は恐縮そうに骨と皮だけといった肩を竦めた。筋ばった棒のように細い手で持っている箸はそれでも離さない。茶碗に盛られた白米が、老人の病状が「おかゆ」状態から脱したことを物語っている。
そんな老人と目が合った。
いや、正確には老人の目線がこっちを捉えた。
こちら――己が持っていた「梅干」に。
「宜しかったらお食べになられますかな? うちで漬けたものですが」
「…………へい」
あかねが笑って、天道家自家製の梅干を老人の前に置かれている食器に落とす。なるべく食べやすいようにと配慮したのか、中でも小粒なもの――それでも親指の爪ほどはあったけれど――を、提供した。
「たくさん持ってきたんです。お気に召したら、食事の時。父に声かけてくださいね」
「……へ、……すみま……。ありがと……す」
「どういたしまして」
老人は切れ切れの声で礼を言うと、梅干を含んだ。
もごもごと動く、歯なんてもうないんじゃないだろうかという口元を見て、あかねは父の横に戻った。
「おとうさんにはね、あたしからもお土産があるの」
「なんだい、あかね」
「まだあんまり食べられないと思ったから、特製ジュースを作ってきたの」
「…………そ、そうかい」
「だから言ったろ、おじさん。災難だなって」
遠い先の義理の息子(暫定希望)のぼそっとした声が、遠くの方から聞こえる。
ゲフッ――、ゴホッ!!
老人が咳き込み、梅干の種を吐き出した。
ゴフッ――……
ジュースを飲んで、天道早雲も咳き込んだ。
死んだかあさんが手を振って、こっちを見ていたよ――
この時の様子を、後に彼は親友にしみじみと語ったというが、それはまた別の話。
意識を放棄した早雲を揺り動かすあかねの足元には、老人の喉から吐き出された梅干の種がひとつ、無造作に転がっていた。
極楽企画に何故か参加させていただいていた時の作品。
知らない間に、実は重要だったらしい場所を担当してました。
「乱あ」で書くということだったらしいのですが、ええ、はい。私がやるんだからコレですよ。
その節はご迷惑をおかけいたしました。