サンドリヨン1 その2
絢爛豪華。
きっとそれはこういうことをいうのでしょう。
まばゆいばかりの光。
むせかえるようなおしろいの匂いと、ひといきれ。
ナビキは気おくれすることなく、人の波をぬうように歩きまわっていました。
「ごきげんよう」
麗しい声でそっと艶やかに微笑むナビキに、すれ違う人が振り向きます。
決して華美ではないけれど、ナビキ自身が持っている強い個性が彼女をより引き立て、そしてたくさんの娘たちの中に埋もれることなく、異彩を華っているのでした。
もっとも、その「異なる雰囲気」というものは、「周囲とのお育ちの差」であることは否めませんが。
目鼻立ちのすっきりとした顔。
こんな場所でも臆することのない度胸。
凛とした空気を持っているナビキ。
人々は囁きます。
あれは一体どこのご令嬢だろう。
あんなご令嬢がこの国にもいたのか。
国外れに住む貧乏貴族の存在など、上流階級のハイソサエティな方々は勿論ご存知ありません。
故に、その娘の顔など知っているものはいなかったのでございます。
印象はバッチリだわ。
ナビキはほくそえみます。
この会場で私は目立っている。チャンスだわ。
さらに印象深いことでもやらかそうとしたときでした。
ざわ……
周囲がざわめきました。
今までナビキに向かっていた空気が瞬く間に変わり、入口へ集中します。
なに、一体。
ナビキが睨むように目を動かすと、そこには真っ白な天使が立っていました。
「着いたぜ」
女の子──いえ、魔女が馬車を停めました。
お城の正面から少しばかり外れた場所ですが、それは仕方ありません。
なにしろ、今日は国中の娘たちが集まっているのです。
貴族や資産家の娘たちには自家用の馬車があるのは必然。
そしてそれは舞踏会が終わるまでそこに停められているのです。
つまり、色んな馬車が駐車されていて、アカネたちのカボチャ馬車が入る隙間などなかったのでした。
そもそも、こんな馬車でここまで来れたことのほうが奇跡だったかもしれません。
それも「舞踏会」という名前のおかげでしょう。
普段ならば、ただちに「不審者」として突き出されていたに違いありませんから。
「ほら、早く行ってこいよ」
「……うん」
まだ気乗りしない様子のアカネを見て、魔女は溜め息をつきました。
「おめー、往生際の悪い女だな。んなもん、適当にぶらぶらして帰ってくりゃいーじゃねえか」
「それは、そうだけど……」
言い淀み、口をつぐみます。
けれど、息をのみこむと勇気を出して、言いました。
「ねえ、魔女さん」
「なんだよ」
「一緒に行ってくれない?」
「──はあ?」
「……だって、なんか一人じゃ心細いんだもん」
「おめー、姉ちゃんが先に行ってるんじゃなかったのかよ」
「だけど、こんなに広い場所だもん、どこにいるのかわかんないわよ」
「向こうが見つけてくれんだろ、きっと」
「無理よ。たくさん人がいるんだもの。わかりっこない」
「わかるよ、きっと」
「どうして?」
「どうしてって……」
今度は魔女の方が黙りました。
ちらりとアカネを見ます。
今のアカネは、ついさっきまでの地味な服とはうって変わり、真っ白でふんわりとしたドレスを身にまとっています。暗闇の中にいても、光輝いているように見えるのです。
背中に羽根こそついていないものの、それはまるで天使のようだと魔女は思いました。
けれど当の本人は、自分がどれだけ人の目を惹く存在になっているのか無自覚のようです。
魔女はごほんと堰をすると、言いました。
「おれは招待客ってわけじゃねーから、おめーと一緒に行くわけにはいかねーよ」
「…………」
「ここで待ってるからよ、ちょろっと行って、そんで戻ってくりゃいーだろ」
「──うん」
小さく頷くのを見ると、魔女は胸をなでおろしました。
そして一番重要なことを伝えたのです。
「この魔法は十二時がタイムリミットだからな。それを過ぎると魔女の魔法は消えちまうんだ。だから、それまでにここへ戻ってこい」
「わかったわ、どうせそんなに長居をするつもりないもの」
アカネは頷き、そしてキッとお城を睨むと、武道会に挑む戦士さながらの勢いで、歩いていきました。
その背中をしばし見送っていた魔女でしたが、アカネの姿が城内に消えるとともに、彼女もまたその場から姿を消しました。
ざわざわ。
周囲のはっきりとしない、声ともつかない声に、アカネは不安をつのらせます。
なんだろう。あたし、やっぱり浮いてるのかな……。
見渡すかぎり、どこまでも豪華な広間です。
いわゆる「社交界」というものにあまり縁がなかったため、アカネは圧倒されまくりです。
色とりどりのドレスをまとった女性たちが、じろじろとこちらを見ています。
値踏みするような瞳です。
身体を張ってする勝負なら多少なりとも自信があるアカネですが、こういった女性の駆け引きといったものはまるで苦手なのです。
ナビキおねえちゃんならきっとうまくやるんだろうな……。
アカネはますます心細くなりました。
魔女は「きっとすぐ向こうから見つけてくれる」と言っていましたが、そんなのきっと無理です。
ただでさえこんなに人がたくさんいるというのに、どうしてわかったりするのでしょうか。
早く帰ろう。
そう思いました。
でもその前に、なにか食べよう。
お城で振舞われるご馳走なんて、もう一生食べることなどないでしょうから、冥土の土産に食べておくにこしたことはありません。
いつか天国に行ったとき、こんなものを食べたのよ──と、死んだ母に話してあげることができるでしょう。
ホールの中央を離れ、アカネは端の方に並べられているテーブルへと向かいました。
美味しそうな匂いが漂ってきています。
そういえば、具合が悪かったこともあり、今日はまともな「料理」を食べていませんでした。
アカネは匂いに釣られるようにしてふらふらと歩き、つと、その動きを止めました。
いえ、止められたというべきでしょうか。
誰かが腕を引いて、アカネを引きとめたのです。
「失礼、お嬢さん」
振り返ると、どこかのご子息といった雰囲気の男がにこやかに立っていました。
「この私と一曲いかがですか?」
「──え。あ、あたしと、ですか?」
「勿論です、レディ」
驚くアカネですが、もっと驚くことになりました。
男が声をかけたと同時に、周りにいた他の男性が口々に誘い始めたのです。
ちょっと待ったコールがかかりまくりです。
大合唱です。
アカネは、たじたじと後退します。
なにがなんだかわかりません。
逃げ出そうとするアカネの腕を、またも誰かが掴みます。
身を引いて逃げようとすると、意外な人の声がしました。
「おい、大丈夫かよ」
「魔女さんっ!」
「シー! んなデケー声で言うなよ」
「ご、ごめんなさい」
そこにはあの魔女がいました。
おさげ髪をそのままくるりとビンで留め、花をあしらった髪留めで飾っています。ワインレッドのドレスが、赤毛とマッチしてとても似合っていました。
「どうして、ここに? 大丈夫なの?」
「大丈夫って、人の心配してる場合かよ、おめー」
未だに争っている男性陣を横目で睨み、ドレス姿の魔女はアカネを手招きして別の場所へと誘導します。歩きながら、話し出しました。
「なにやってんだよ、さっさと逃げればいーものを」
「だって……、どうしていいのかわからないんだもん」
「ぼーっとしてっから、あんな変なのに声かけられんだよ」
「変なのって、そんなよく知りもしないのに──」
「その知らない人をまともに相手してどーすんだよ」
「…………」
よくわかりませんが、魔女は立腹しているようです。
けれど、アカネにはわかりました。
どうしてと訊かれても答えられはしないけれど、アカネにはわかったのです。
「ごめんね、ありがとう魔女さん。心配してくれて」
「べ、別におめーの心配してたわけじゃねーっ。おれは、だな。おれはおれの魔法を使った相手がヘマとかやらかしたら困るんであって──」
アカネが言うと、魔女はあわてふためいて言いはじめます。
その様子がおかしくてアカネが笑うと、まだ赤い顔をしたままで、魔女は怒ったような口調で言いました。
「と、とにかくだな。もっとシャンとしてろよな」
「うん、今度なんか言ってくるような男がいたら、アゴ叩き割ってやるわ」
「──凶暴な女だな……」
「自分の身は自分で守る。おとうさんがよく言ってるわ」
「だからって自分で闘うかよ、女のくせに」
「あら、魔女さんだって女の子じゃない」
「おれは──」
そう言って口をつぐみます。
なにか含むところでもあるようです。
そういえば、会った時からずっと、自分のことを「おれ」と称していました。
「せめて、連れがいるからーとか、そうやって断れよな」
「でも、居もしないものを──」
「殴るよりマシだろ。こんな場所で騒ぎ起こすと大変だぞ、おまえ」
「──そうね、たしかにそうだわ」
父に迷惑がかかるかもしれません。アカネは納得して頷きました。
真っ白なアカネと、赤いドレスの魔女。
その二人が供にいると、それはとても目立ちます。
魔女は急に周囲を気にすると、アカネに「時間厳守だからな」と言い残し、人の波に消えていきました。
どうしたんだろう。やっぱり手配されてるのかしら?
首を傾げて見送った後、アカネはしばらくおなかを満たす方に専念することにしたのです。
****
どれから食べようか。
目移りするほどの品数です。
こんなにたくさんの種類のものがテーブルに並ぶなんてこと、クリスマスにも年末にもありません。
そして、そのどれもがとてもおいしそうなのです。
さすがは王室です。
けれど招待客はあまり「食べる」ことには関心がないようでした。
それよりも、彼らにとっては、他の有力者や権力者と縁を結ぶことの方が大事なのです。
さらにいうならば、喰うに困ったことはないので、料理などたいして珍しいものではないのでしょう。
思う存分食べて帰ろう。
あ、あっちにプチケーキがいっぱいある。
目を輝かせたアカネの耳に、高らかなファンファーレが届きました。
パーン、パララッパララララパ〜、パー、ピ=
素っ頓狂な音で最後は外れましたが、とりあえず誰かが登場するのでしょう。
ホールにいる人々がみな、一点を見つめています。
ケーキをつつきながら、アカネも見つめます。
赤い絨毯が敷き詰められたバルコニー。
白い花が飾られている、あつらえたような舞台に王冠を載せた男が現れました。
どよめきが起こります。
あれが王様なんだ。
初めて見ましたが、わりと色黒の王様でした。
次いで歓声とともに王子が登場します。
遠く離れたここからみても、随分と背の高い人だというのはわかりました。
噂通り、たしかに整った顔立ちをしています。
「皆の者、今日はこのぼくのために集ってくれたこと、ありがたく思うぞ」
朗々とした声が響きました。
結構、いい声をしています。
噂のタテワキ王子は、たしかに噂通りの「美男子」でした。
「ホホホホホホホホ」
高らかな笑い声でその隣に立った娘がいます。
タテワキ王子の妹君・コダチ姫です。
こちらも王子によく似た面立ちの美人でした。
王族はやっぱり違うわねー。
ケーキの飾りチョコレートを一口で頬張りながら、アカネは呑気に思いました。
王様が現れたあとが、舞踏会の本格スタートです。
「今夜は無礼講デース」
王様の合図とともに、楽団が軽やかな音楽を奏ではじめ、各々がステップを踏みます。
たくさんのドレスがふわりと舞い、娘たちの笑顔が花となり。
煌びやかなシャンデリアからこぼれる光で、それはさらに艶やかに咲き誇ります。
そんな中、壁の花となっているアカネ。
けれど、その輝きはたとえホールのどこにいたって見失うということはないでしょう。
事実、踊りながらも皆がちらりちらりとアカネへと目を転じます。
目で追うあまり、相手の足を踏んでしまい怒られる男性が続出です。
きっと明日の朝、娘たちは足に痣をつくり、男たちは顔に青タンを作ることでしょう。
けれどアカネ本人は、やはり無自覚でございました。
誰もが惹きつけられているということは、それは王子も例外ではないということです。
タテワキ王子もまた、アカネの放つ輝きに目を見張った一人でした。
「おお、なんと美しい」
これはぼくがダンスを申し込むのを待っているに違いない。
だから、他からの申し出を拒んでいるのだろう。
タテワキ王子はそう考えました。
思い込んだら一直線。行くが王子のド根性。
ホールの中央を堂々と渡り、アカネの元へ向かいます。
大きなホールを渡るには時間がかかります。
人込みの中を、ダンスの中を歩くのですからなおのことです。
王子が辿り着くより前に、アカネには身の程知らずの男性が再び声をかけていました。
「やあ、さっきはどうも」
「さっき……って」
「急にいなくなってビックリしたよ。さあ、レディ。私とレッツダンシーング」
「すいません、お断りします」
「何故だい。せっかくの舞踏会なんだから、楽しもうよ」
「結構です」
魔女が言ったことを思い出し、アカネはつけくわえました。
「それに私、連れがいますから」
「連れ?」
「ええ、そうです」
「でも、さっきから見てたけど、君はずっと一人じゃないか。その連れとやらはどこにいるんだい?」
「そ、それは──」
言葉につまりました。
こういうアドリブに、アカネは激しく弱かったのです。
男が腕を引きます。
「さあ、行こう。きっと連れの人は他の女性とランデブーだよ」
「だけどっ」
「だから、君は今宵、この私とタンデムナーイト」
「ちょ、離してくださいっ」
しつこい男にアカネは思わず拳を握りしめます。
ドカンと一発食らわしてやろうかと思った時でした。
「おい、なにしてんだよ」
男の声がしました。
振り返ると、見知らぬ男の子が立っています。
その男の子はアカネの手を掴んでいる男の手を強引に振り解くと、アカネを庇うように背中に隠しました。
「なんだい、急に割り込んで」
「割り込んでんのはそっちの方だろ」
「──じゃあ、君が彼女の連れなのかい?」
するとアカネが答えるより前に、少年が答えました。
「だったらなんだよ」
なんだよ。は、こちらの方でした。
いきなりやってきた見知らぬ人が自分の連れだなんて。
アカネは驚いて顔を上げます。
女だけの姉妹で育ったアカネは、同い年ぐらいの男の子と過ごした経験がありません。
使用人もいなかったので、貴族間にありがちな「庭師の息子と遊ぶ」とか、そういったこともなかったのです。
だから、こうして近くで見て、男の子というのは随分と大きな背中をしているんだなーというのを知りました。
見上げないと頭が見えないぐらいに背丈もあります。
「行くぞっ」
不機嫌そうに言葉を吐くと、見知らぬ彼はアカネの腕をむんずと掴むと引っ張るようにその場を離れます。
アカネも唖然とした風の男を振り返りながらも、引かれるがままに歩き出しました。
ずんずんと早足で進みホールを離れ、廊下を歩き、そうして二人は大きなガラス戸の前で止まりました。
そこは広間の喧騒から解き放たれた空間。
床から天井に達するほどの高さまであるガラス張りの向こうは、王宮の庭が広がっています。
迷路のような薔薇園、手入れされた庭木、草花。そしてそれを満遍なく見るために作られている小道。
それが薄闇の中に浮かび上がっています。
同じように頭上からの月明かりに照らされて、アカネはようやく止まった相手の背中に声をかけました。
「助けていただいて、ありがとうございました」
「…………」
「あの、ひょっとして、魔女さんのお兄さんとかですか?」
「──兄?」
「あっ、違ってたらごめんなさい。ただ……」
「ただ、なんだよ」
「……ちょっと似てるなって、思ったんです。魔女さんに言われて助けてくれたのかなって……」
まだ背中を向けたままなので、どんな表情をしているのかわかりません。
けれど、背中だからこそわかるような気がしたのです。
威勢がよくてつっけんどんなわりに結構世話焼きだったりしたあの魔女に、雰囲気がよく似ていると。
魔女と同じようにおさげ髪にしているので、もしかしたら身内なのかなと、アカネはそう思ったのでした。
「兄貴じゃねえよ。だからといって弟ってわけでもねえけど」
「そう、ですか」
それ以上の追従を許さないような口調に、アカネは口を閉じます。
しばらく落ちた沈黙。
少年は無言のままで歩き始めます。あわてて後を追おうとするアカネをその場に留めるように、彼は言いました。
「じゃあな。とっとと帰ったほうがいーんじゃねえのか」
「え、あ、──待って」
けれど、その背中は遠ざかります。
アカネはなおも呼びかけました。
「あたしは、アカネっていうの。ねえ、あなたの名前は?」
「────ランマ」
ぼそりと呟くと、少年は回廊の闇の中に消えてしまいました。
その場に取り残されたアカネは、幽霊にでも会ったかのように、闇の中を見つめ続けます。
なんだかひどく無愛想な人でした。
それでも見ず知らずの自分を助けてくれたぐらいなのだから、きっと悪い人ではないのだろうと思うのです。
もっともそれは、魔女の知り合いだから──というのもあるのかもしれませんが。
結局、どういう親族なのかはわかりませんでしたが、それはそれで構わないかもしれません。
どうせ、このお城から出るときに、魔女にもう一度会うのです。その時に魔女に訊いてみればいいのですから。
ねえ、魔女さん。ランマっていう男の子は、魔女さんの知り合いなの?
もう一度会うことはできるかしら?
今度はもっときちんとおはなしができるかしら?
広間に戻って、中を見渡して。
それでも、その中にランマの姿を見出すことができなかったアカネは、そんなことを考えました。
もう一度。
そう思っている自分に、アカネは驚きます。
大きな広間には国中からやってきた、たくさんの人がいて。
そうしてみんな、少しでもいい相手を見つけようと目をこらしている。
男も、女も。
そうやって相手を探している。
そんな中、自分が探して求めている相手は、たった一人なのです。
他の誰でもなく、ただ一人。
そしてそれは、名前しか知らない男の子。
ほんのわずかだけ会話をした、よく知りもしない男の子。
帰り道、魔女さんに尋ねればいい。
そう思っていたにも関わらず、アカネはなんだか急かされたようにホールを歩き始めました。
人の波を縫い、ちらちらと顔を伺いながら。
どうしてこんなにも探さなければならないと思うのか、アカネにはよくわかりません。
だからこそ、会って確かめたいと思ったのです。
キョロキョロと辺りを見渡しているアカネの肩をつかむ人物がいました。
「ランマ?」
アカネは振り返ります。
けれど、そこにいたのはランマではありませんでした。
「おお、やっと見つけたぞ、麗しの我が姫君よ」
「タ、タテワキ王子、さま?」
驚いたことに、タテワキ王子がアカネの前に立っていました。
目を丸くするアカネの顔を見て、王子は笑います。
「先ほどからそなたを探していたのだ。さあ、この僕と一緒に──」
「あの、申し訳ございません。無理なんです」
王子さまが誘いの文句を言い終わる前に、アカネはさえぎりました。
王子の顔の向こう──アカネの瞳には、大きな時計が捉えられています。
時計の針は、あと数刻で重なろうとしていました。
魔女が定めた刻限です。
「門限なんです。帰らないとっ」
失礼します。
アカネは深々と頭を下げると、走り去りました。
後を追おうとする王子の瞳に、赤い色が映ります。
「おお、あれはっ──」
まさに夢のお告げで聞いた、赤い花──まるで薔薇のような少女でした。
タテワキ王子は雷に打たれたように悟りました。
僕はあの少女と会うために生まれてきたのだ、と。
アカネのことはさておいて、王子はその少女に声をかけました。
「まて、そこの赤い君」
「んあ?」
怪訝そうな顔で、少女が振り返りました。
ちいさな顔の中にコンパクトに収まった目鼻立ちは、どこか中世的な雰囲気。
今まで化粧にまみれた女性の顔ばかりに相対していた王子には、とてつもなく魅力的に見えました。
「君、ぼくとダンスを踊ろうではないか」
「んなことしてる場合じゃねーんだよ。おれはもう帰るんだ」
「まだ早いではないか」
「こっちにも都合ってもんがあんだよ、おい離せよっ」
むんずと掴まれた腕を、女の子とは思えない力で振りほどくと、入口へ向けて走っていきます。
王子は後を追いました。
少女は駿足でした。
王子も文武両道を自負していますが、そんな彼でも簡単に追いつけないのです。
まるで、魔法でもかけられているようでした。
「とにかく、一曲だけでも良いのだ、赤毛の少女よ」
「だーっ、しつけーな!」
少女は軽く跳躍すると、階段の手すりをまたぎ、滑り降りていきます。
ドレスのスカートが、ひらひらと風を含んで広がりますが、意に介さぬ様子です。
カラ〜ンコロ〜ン、カララ〜ン
鐘の音が響きます。
日付が変わるのです。
早くしねーと、魔法が解けちまう。
魔女は胸の中で、悲鳴のような叫びを上げました。
転がり落ちるようにして、お城の長い長い階段を駆け下りていきます。
なんだってこんなにも段が多いのでしょうか。
魔女は舌打ちをしました。
二段飛ばしどころか、五段おきぐらいに下りていきます。
邪魔っけなスカートをたくしあげ、淑女とは決していえない格好です。
ジャンプするにつれ、綺麗に結われた髪も乱れてゆきます。
おさげ髪を結わえていた飾り留めが外れ落ちてしまったことに気づいたけれど、魔女は拾い上げようとはしませんでした。
それどころではないからです。
ガラ〜ンゴロロ〜ン
鐘が鳴ります。
馬車の傍では、先に着いていたアカネが魔女が来るのを待っていました。
時間厳守といったくせに、本人がいません。
どうなっているのでしょうか。
魔法が解ける。
そうなると、この馬車もなくなってしまうのでしょうか。
カラーン、カララ〜ン
「魔女さんっ!?」
ドレスも髪も乱した魔女が、走ってくるのが見えました。
ハイヒールはとうに脱ぎ捨て、裸足で走っています。
なんというか、ワイルドでした。
「──はや、く。帰れ……」
「魔女さんも早く」
「おれはいいから、おめーは先にいけ。魔法が解けちまったら馬車もなくなっちまうんだぞ」
「だったら尚更よ。魔女さんが一緒じゃないと」
「おれはおれでなんとかなんだよ」
「ダメよ。一緒に来たんだもの。一緒に帰るの」
「だから、おれはっ──」
ゴーン……
最後の鐘が響き渡りました。
余韻とともに、アカネの周囲が光り始めます。
魔女の魔法がかかったときと同じ輝きです。
けれど、これは違います。
魔法は魔法でも、その効力が消え去っていくのです。
カボチャ馬車は、ただのカボチャへ。
黒と白の二対の馬は、豚とアヒルへ。
真っ白なアカネは、元の地味なアカネへ。
真っ赤な魔女は、
一回り大きな黒いマントの少年の姿へ──
「魔女……さ、ん?」
おそるおそる、アカネは声をかけます。
一体どうしたのでしょう。
ひょっとして、自分が言いつけを守らなかったばっかりに、魔女はなにかしらの罰を受けてしまったのでしょうか。
だから、あれほどまでに先に行けと──
「ねえ、魔女さん。ごめんなさい、あたし……」
うずくまったまま動かない魔女の傍にしゃがみこみます。
自分になにかできることがあるのなら、なんとかしてあげたいと思ったのです。
顔色をうかがおうと覗きこみ、アカネは息を呑みました。
「──ラン、マ?」
そこにいたのは、あの少年でした。
アカネを助けてくれた、ランマと名乗った男の子。
混乱します。
たしかに魔女とランマの雰囲気は似ていると思っていたけれど、男と女を見間違うほど自分の目は悪くありません。
さっきまでは、女の子でした。
声も、身体つきも。
なにもかもが、女の子だったのです。
それが一体どうしてしまったのでしょうか。
「赤毛の──、おさげの少女よー!」
静寂を破るように、タテワキ王子の声がしました。
アカネは身構えます。
どうしよう。
こんな場所に座り込んでいては見つかってしまいます。
すると今まで動かなかったランマが急に顔を上げると、マントの左側でアカネを覆うようにして隠し、空いた右手でアカネを抱えると、軽く跳躍しました。
ふわり。
人ひとりを抱えているとは思えないほどの身のこなしです。
急に視界を塞がれ、あげくに宙に浮いたアカネは小さく悲鳴をあげます。
マントの上からとはいえ、こんな風に誰かの腕に抱えられる経験などありません。
小さな子供の頃、父親に抱かれて以来のことです。
おまけに、足を蹴っても跳ね返る感触がないことがこんなにも人を不安にするとは、今まで思いもしませんでした。
それでもそれは、ほんの数秒のことだったのでしょう。
ランマはアカネとともに頭上の大きな木に身を隠したのです。
タテワキ王子がやってきた時、そこにはカボチャが転がっているだけでした。
唐突に現れた豚とアヒルなど眼中にないように、タテワキ王子は辺りを見回してがっくりと肩を落とします。急いで追いかけてきたけれど、あの少女の姿はどこにもなかったからです。
さきほど少女が落としていった髪飾りを、王子はぐっと握りしめます。
「おさげの少女よ。ぼくは必ず会いにゆくぞ」
そうして、王子は身をひるがえすと立ち去っていきました。
背中が燃えていました。
「……冗談じゃねえや、クソ」
無意識のうちにランマにしがみつく形になっていたアカネは、小さく呟いたはずのその言葉を、驚くほど大きな響きとして耳にしました。
改めて今の自分の状況に気づくと、慌てて身を剥がします。
マントが外れ、上げた視線の先で、ランマの視線とぶつかりました。
近くにある顔に驚いて、慌てたように離れます。
けれど、そこは大木の太い枝。
ただ腰かけているだけの状態なので、逃げ場はありません。
思わずランマを突き放した反動で、アカネの軽い身体はふらつき、そのまま地上へまっさかさま──
になろうかというところを、慌ててランマが手を伸ばしました。
再び助けられ、それでもその状況に、手のあたたかさに。
アカネは恥ずかしくなってうつむきました。
ついさっきは、もう一度会えたらいいと思っていたというのに、どうしてでしょう。
今はこうしていることが、なんだかドキドキしてたまらないのです。
「ねえ、あなたは誰なの? あなたは、あの魔女さん、なの……?」
アカネは訊ねました。
魔女の魔法。
十二時に解けてしまう魔法。
それはひょっとして、魔女自身にもなにかしらの魔法がかかっていて、
そしてそれが解けてしまうことを意味しているのではないのでしょうか。
薄闇の中で、小さくため息をついたランマは、口を開きました。
「──そうだよ、おれがおめーのいう魔女さんだよ」
「でも、どうして? だって、魔女さんは女の子で、あなたは男でしょう?」
「魔女っていうからには、女じゃねーと魔女とは言えねーだろ」
「……それは、そうだけど」
「だからだよ」
「なにが?」
「魔女を名乗ってる理由」
「────どういうこと?」
魔女さんは女じゃないの。
そう思ったアカネに、ランマは言ったのです。
「おれは元々、男でい」
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