Snow White Chapter 1   あかね姫
 


 むかしむかしあるところに、とても可愛らしい少女がいました。
 漆黒の長い髪。雪のように白い肌をしていますが、微笑むと、ふっくらとした頬はバラのように染まり、それはまるで夕焼けに染まる薄紅色の雲のようです。
 見ているこちらも思わず頬を緩めてしまうほどでした。
 彼女の名前は、あかね。
 周囲の皆に愛され育つ少女ですが、愛されるということは裏を返せば、憎まれるということ。
 光に対する影のように、輝かしい少女を妬む者もまた存在しているのは当然でしょう。


「鏡よ鏡、この国で一番美しいのはだ〜れ?」
 窓ひとつない、狭い部屋。
 広い城の片隅で、関係者以外立ち入り禁止としている区域にある、そんな場所で。
 一人の少女が、艶やかな笑みを浮かべながら一人で呟きました。すると、
「それは小太刀様でございます」
 灯りひとつないはずの部屋で、仄かな光が生まれました。どこからともなく響いた声は、涼やかで凛とした響きをもって狭い部屋に静かに木霊します。声に呼応するように洩れた光源の元は、壁にかけられた一枚の大きな姿見でした。
 少女の背丈ほどもある鏡は、内からの声とともに光を放ちます。
 それは魔法の鏡。訊ねた問いかけに真を返す、真実の鏡です。
 暗い部屋の中で光に照らされた少女の顔は、それはたしかに美しい顔立ちをしていました。
けれど、それは闇の美しさともいえるもの。漆黒のドレスを身にまとい、黒いバラをあしらった髪は、やはり艶やかな黒髪です。

「この国で一番お美しいのは、小太刀様ですが……」
 いつもならば最初の言葉だけで留まるはずの言葉が、今日は淀みなく続きます。
 不審に思った姫君・小太刀は訝しげな顔のままで耳を傾けていましたが、次の言葉を聞いた途端、その笑みが凍りつきました。
「ですが、あかね姫の方がもっと可愛らしい」
「な、なんですってっ!?」
 カッと目を見開き、小太刀は凝固しました。
 あかね姫。
 それはたしか、この城に招きいれられている新しい姫の名前です。
 小太刀には姉妹がなく、たった一人の兄は現在、勉学の為に留学中です。一人では淋しいであろうという配慮のもとに、同じ年頃の少女たちが定期的に招かれているのですが、その中にいる、新しい少女「あかね」とやらが、自分の上を行くというのです。
 わなわなと震える小太刀に追い討ちをかけるように、鏡の精は言いました。

「小太刀様はたしかに美人ではありますが、あかね姫はなによりも素直で愛らしく、お城に来てまだ間もないですが、すでに人の噂にのぼっております。例えば──」
 一旦言葉を切ると、次に若干の雑音とともに、男の声がいくつか聞こえてきました。


「可愛いよなー、あのあかねって子」
「誰だよ、それ」
「うわ、おまえ知らねーのかよ、遅れてんな」
「ほら、ちょっと前に新しく上がってきた子だよ」
「へー、新人か」
「これがまた、可愛いんだ」
「なんだよ、小太刀様親衛隊のくせに」
「なりたくて親衛隊入ったわけじゃねーよ、たまたま配属されちまっただけだろ」
「小太刀様の場合、気に食わないと、ほら」
「ああ、あの薔薇吹雪と、眠り薬入り紅茶と、しびれ薬入りクッキーだろ」
「あれで一ヶ月寝込んだぞ、おれは」
「再起不能になった奴もいるらしいな」
「そうそう、そんでさ、小太刀様の折檻を受けてフラついてる時にさ、あのあかね姫が声かけてくれたんだよな〜。大丈夫ですか? ってさあ」
「あ、くそ、おまえ。抜け駆けだぞ」
「早いもん勝ちだよ、けけっ」


「──以上、休憩室での会話を内密に集音させていただいたものをお聞きいただきましたが、これは一部でございまして、このほかにも庭師や執事、その他諸々の男性諸氏の間ではすでに噂が噂を呼び、そのうちに噂は城の外にも洩れ始めるかと思われる次第でございます」
 すらすらと喋り終えると、光はなりを潜め、また元の暗闇へと戻りました。
 暗い部屋の中で、今度は妖しく輝く光。それは、怒りに染まった小太刀姫の瞳です。
「なんということでしょう。許しませんことよっ!」
 パチンと、指を鳴らします。すると闇の中、ストン──と降り立つ影が見えました。小太刀姫がひそかに飼いならしている、暗殺者です。
「あかねという女を、さっさと殺しておしまいなさい」


   *


 さて、城内で噂の的になっているあかねですが、当の本人はそんなことに気づいているわけもなく、むしろ始終感じる視線は、自分が小太刀姫の相手として相応しいのかどうか値踏みされているのだろうと考えていました。
 たいして家柄がいいわけでもない自分が、たまたま年齢がかちあったというだけの理由でお城に上がったのですから、礼儀作法だとか上流階級の暗黙の了解だとか専門用語だとか。そういったものは、さっぱりわかっていないのです。向けられる視線や笑顔が、常に自分を嘲笑しているもののように思えて仕方がありませんでした。
 だからこそ、目の前に現れた黒装束の男を見た時も、とうとう解雇されるのだと思ったのです。
「誰にもなにも言わず、私についてきていただこう」
「──はい、わかりました」


 暗殺者は少々あっけない気持ちでした。
 通常の任務では、相手は恐れおののき、泣きながら命乞いをしたりするものなのです。
 それが快感だとは思いませんが、ここまですんなりとついてこられると、「この子は大丈夫なんだろうか」と少々心配になってきます。これから殺そうという相手を心配するなど、なんだか矛盾していますが、その時暗殺者は心底思っていたのです。
 こいつ、騙されて、そんでもって高い壺とか買わされるタイプだ──と。
 これじゃいけないんじゃないだろうか。
 世の中の厳しさとか、殺されるっていう恐怖感とか、そういうのをちゃんと感じて、噛み締めながら死んでもらわないと、暗殺者としては困ります。
 そう、困るのです。暗殺者としての美意識に関わる、ゆゆしき事態です。
黙々と歩き続けていましたが、そこで足を止めました。
「おい、おまえ」
「はい、なんでしょうか」
「私は小太刀様の命で、おまえを殺す為に連れ出した。だが、このまま殺しては私の気がすまん。泳がしてやるから、逃げろ」
「…………!」
 背中からどす黒い妖しい空気は感じていましたが、まさか殺し屋だとは思わなかったあかねは、息が止まります。けれど、相手は「逃げろ」というのです。
 主人の命令に逆らうこと。それは大逆です。城にあがる時、「王族に逆らってはならない」と念押しされているぐらいですから、城仕えが短いあかねにだって、それがどれほどまでに大きな裏切りになるのか、想像はつきました。

「どうした、早く逃げろ。殺されたいのか」
「……あなたは、どうなるんですか?」
「……どういう意味だ」
「あたしを殺して来いって言われて、それでそのまま帰ったら、あなたはどうなるんですか?」
「…………」
 やっぱりこいつはバカだ──と、暗殺者は思いました。どこの世界に自分を殺そうとした相手を心配する人間がいるのでしょうか。自分を見つめる大きな瞳には、恐怖の色は少しも見えません。自分の身よりこちらを案じているようなそんな瞳なのです。

「小太刀様だけが主人ではない。私は有能だから、他に主人ぐらい、いくらでも探せるだろう……」
 素直な瞳がなんだか痛くて、暗殺者は視線を反らしました。
 居たたまれません。こんな風に居心地の悪い思いをするのは、学生時代に片思いをしていた女の子相手に、わざと嘘をついた時以来でした。
「わかりました」
 沈黙の後で、あかねが言いました。
 一体なにがわかったというのだろうか。
 あかねに視線を戻した暗殺者は、驚きのあまり声を上げそうになりました。
 感情を殺すことを常とする彼にあるまじき失態。
 けれど、それぐらいに彼は驚いたのです。
「これをお持ち帰りください」
 そう言ってあかねは、左手を突き出しました。
 はらり、と一筋の髪が地面にこぼれます。
 あかねはいつのまにか右手にナイフを持ち、己の長い髪をばっさりと切り落としていたのです。
「殺して髪を切ってきた。そう言えば、誰も疑いはしないでしょう?」

 この国において、女性はみだりに断髪はしないものです。長い髪こそが良しとされ、短い髪というのは女性にとって、もっとも辱められることなのです。
 たしかに髪を切って持ち帰れば、その生死はともかくとしても、一人の女性として生を断ち切られたのと同様でしょう。現に彼は、今までにも何度となく同じ行為をしてきたはずです。それなのに、どうしてこんなにも罪悪感を持ってしまうのでしょうか。

「どうして、そんな……」
「髪はまた伸びます。でも、あなたの命はひとつしかないじゃない」
「──バカだ、おまえは」
「そうかもしれません」
 あかねは小さく笑いました。
 困ったように、軽く。
 けれどそれだけで、この少女の性格がなんとなくわかったような気がしました。バカがつくほどお人好しなんだろう。自分のような暗殺者にまで気をつかう。バカそのものだとは思うけれど、悪い気はしない。
 この優しさは、諸刃の刃だ。

 暗殺者は、あかねの髪を受け取ると、風とともに姿を消しました。
 この髪を小太刀様に渡し、そしてこの国を去ろう。
 そう思いました。

 実家に帰ろう──と。



 知らないうちに、暗殺者を廃業へと追いやったあかねは、一人になった途端ちょっと不安になりました。大見得をきってはみたものの、たった一人ぽつんと残されてしまうと、これからどうすればいいのか悩みどころです。
「くよくよしてたって仕方ないわ、とりあえず先へ進みましょう」
 実家には帰れません。もともと身寄りもなく義理の親に育てられていたあかねです。城を追い出されただなんて、とてもじゃないが言えませんし、おまけにこの髪です。帰ったところで、そんな不名誉な娘を温かく迎え入れてくれるとは到底思えませんでした。
 早まったかな、この髪……。
 今更ながら後悔しましたが、それは「あとのまつり」というやつです。
 生い茂る木々。木漏れ日すらも遠い森。苔むした足元に気をつけながら、あかねは歩きつづけます。
 こうも太陽が遠いと、一体どれぐらの時間が経過したのか、皆目検討がつきません。
 けれど他に行く当てもないあかねは、ただひたすらに進むしかなかったのです。








 
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