Snow White Chapter 7  眠れる心
 


「あら、乱馬。あかねさんは?」
「し、知らねーよ、あんな奴」
 あからさまに視線をそらした息子を見て、のどかはわずかに表情を険しくします。
「妖しい人が来ないか見張るための留守番なのに、あなたは何をしているのです」
「あやしー奴なんて来てねえよ」
 その時でした。

 オーッホッホッホッホッホ──

 どこかから、妖しい笑い声が聞こえたのです。なんだかとっても不吉な声でした。

「……なにかしら、あの声」
「なんだかヘンな感じだねえ」
「何もないに越したことはないが、見に行ってみるかの」
 玄馬がそう言ったのを合図に、小人たちはぞろぞろと声の方向へ歩き始めます。ばつの悪そうな顔で、乱馬は一番後ろをとぼとぼと付いていきます。背中しかわかりませんが、母親はとても怒っているように思えました。
 なにをあんなに怒っているんだろう?
 乱馬はよくわかりません。「あかね」はでっかいんだから、「人間」なんだから、シャクだけど自分たち「小人」よりは強いはずです。だから、たいして危険なんてないはずなのに。今までだって、すぐに元気になっていたんだから、病気とか、そういうのもかからないに違いないから。
 それでも、こんなにも「あかね」のことが引っかかっているのは、あの時の声のせいだと思うのです。
 ごめんなさいと、とても辛そうに言った声。
 あんな風な声は、初めて聞いたから──。

「──あ、あれはっ」
 早雲の声で、乱馬は顔を上げました。
 草むらの中に、何かが──誰かが横たわっています。
 いつの間にか見慣れてしまった大きさの、あかねです。
「…………あ」
「あかねさんっ!?」
 皆が慌てて走り寄るのを見ながら、乱馬はゆっくりと近づきます。
 ゆっくりとしか、近づけなかったのです。
 心臓がドキドキします。
 頭がぐらぐらします。

 そんなわけない、そんなわけない。

 違う違う違う違う。

 否定の言葉が木霊するけれど、頭のどこかではとても冷静に理解もしていました。

「…………せいだ」
「なに?」
「おれが、おれがあんなこと言ったから……」
 視線が痛くて、乱馬は俯いたままで吐き出します。
「あかねが来たせいで新しい家への引越しだって滞ってるし、家ん中もめちゃくちゃだし、みんなだってあかねのことばっかりだし、だからおれ……」
 言いながら、自分でも「子供みたいだ」と思いました。
 妹が出来て、みんなの気持ちがそちらへ向いて悔しくて拗ねているみたいだと。
 あかねの顔は、苦しそうでした。ますます責められているような気がして、乱馬はなにも言うことができません。そんな彼を見て、家族たちもどう言葉をかけてよいのかわかりませんでした。
 今までにも何度となく倒れているのを発見し、その度にたいしたこともなく目覚めていたあかねですから、小人たちはしばらく見守ります。
 今度だってきっと大丈夫だから。
 だから、早く目覚めればいい。
 目が覚めたら、ちゃんと謝らないと。
 乱馬はそう思いながら、あかねの傍に座っていました。
 けれど、いつまで経ってもいつまで経っても、あかねは微動だにしません。
 初めて姿を見た時のように寝返りをうつこともなければ、身じろぎすらしないのです。
 太陽が森の木に沈みました。
 早雲と玄馬が家からテントを持ってきて、野営の準備を始めます。かすみとのどかはご飯の支度を始めます。なびきは水を汲みに行きました。乱馬は、あかねの傍で座っています。ずっと、ずっと。
 やがていい匂い立ち上がり、簡単な夕餉の準備が整いました。
 あかねは目を閉じたままです。
 乱馬のお腹が、音を立てました。
 どうしてこんな時にお腹が空くんだろう。
 空腹を訴えるお腹が憎らしくなって、涙が込み上げます。
「乱馬、冷めないうちにお食べなさい」
「──でも」
 言い淀む乱馬に、のどかは言いました。
「食べられる時に食べておくのが鉄則でしょう。あなたがここで座っていたからといって、あかねさんが元気になるわけじゃないでしょう」
「食べないと、頭まわんないわよ。いい考えだって浮かばないでしょうが」
 なびきも言います。
 薄い暗闇の中。焚き火に照らされたみんなの顔は、思っていたよりもずっと明るい顔をしていました。弱った顔をしてもいるけれど、それでも「だからこそ、なにかをしなければ」と思わせる、前向きな表情なのです。
「男らしくなさい、乱馬」
 母親の決り文句が出たところで、乱馬はごしごしと顔をこすります。
 そうです。
 泣いて、沈んでいる場合ではないのです。
 もし、あかねが目覚めなくなってしまったのが自分のせいであるならば。それをなんとかするのも自分の役目であるはずです。 
 しかし、それから数日が過ぎても、あかねの様子は変わりませんでした。
 なんとかなるだろうと思っていたみんなも、だんだんと疲労の色が見え始めます。
 もう、やめよう。
 誰かが言い出すのを待っているけれど、それを自分からはなかなか言い出せないような、そんな空気が漂いだしたとき、その人は現れたのです。



   *



「むむ、何者だ、貴様ら」
「そーゆーおめーこそ、誰だよ」
「この僕を知らんというのか、無礼者めが」
 随分と横柄な男です。身なりも立派そうで、なびきがざっと鑑定したところ、身に付けている衣服と宝飾を合わせたら、向こう五年ほどはなにもしなくても悠々自適な生活が送れそうなぐらい豪華な装いでした。そんなお金持ちが、どうしてこんな森にいるのでしょう?
 すると彼は、訊かれてもいないのにペラペラとしゃべりはじめました。
 それによると、彼はこの国の皇太子である帯刀王子。留学先から帰国の最中、森に迷い込んでしまったそうなのです。
「して、ここはいったいどこなのだ」
「どこだっていいだろ。外へ出たいなら、このまままっすぐ進めば道に出るぜ」
 さっさと行けとばかりに、乱馬は手を振りました。
「ふむ、教えてくれたこと、感謝するぞ小人よ。なにか礼をせねばならんな」
「いらねーよ、礼な」んて、と言い終わる前に、なびきに突き飛ばされました。
「お礼なんてそんな、その宝石を幾つかくださるだけで結構ですわ、王子様」
「……なびき、おめーな」
 王子はなびきの言葉よりも、その向こうに眠っているあかねの姿に反応しました。
「小人よ、あそこにいるのは、どこの誰だ」
「か、かんけーねーだろ、おめーには」
 けれど、乱馬の言葉などお構いなしに帯刀王子はずかずかとあかねに近寄っていきます。長い足には追いつけず、小人たちは王子を止めることはできませんでした。
「おお、なんと美しい……」
 あかねを見て、王子は呟きます。
 まるで死んでいるかのように動かないけれど、その顔は不思議なほどに穏やかで。最初に浮かべていた苦悶の顔は今はなく、ただ安らかな顔をしているのです。
 王子はそっとあかねに手を伸ばします。
 乱馬はちょっとむっとしました。
 いきなりやってきたヘンな人間が、いくら同じ「人間」だからといって、そんな軽々しくあかねに触っていいわけがないのです。
「この愛らしい唇、柔らかな頬。ああ、閉じられた瞳は、一体どんな色をしているというのだろう」
 陶酔したように王子はいいます。
 あかねの大きくて黒い瞳が一番最初に映すものが、このバカっぽい王子だと思うと、なんだかものすごくイヤな気持ちになりました。
 イヤな気持ち?
 いいえ。イヤというよりは、我慢できない、許せないという理不尽な怒りに似た気持ちです。
 それはきっと、この王子の物言いがいちいちカンに触るからでしょう。


「この娘は一体どうしたのだ?」
「実は、何者かに毒を盛られたようで、死んではいないようなのですが、目覚めないのです」
「毒だと!?」
 王子は即決の男でした。
 なので、すぐさま決断したのです。
「よし、僕の花嫁を目覚めさせるため、城へ連れて帰るぞ」
「はなよめ?」
 少々、強引でした。
 飛躍しすぎでもありました。
「って、おい。なに勝手なこと──」
 乱馬が焦って言おうとすると、その肩を叩いて止める誰かがいました。振り返ると、それはのどかです。
「なんだよ」
「あかねさんにとっては、その方がいいのかもしれないわ」
「……な、なに言い出すんだよ。だって……」
「母さんの言うことはもっともじゃ。しょせんわしら小人と人間は、住む世界が違うんじゃよ」
「それに、私達ではどうにもならないことでも、同じ人間なら、あかねさんを治療することだってできるはずよ」
「…………でも、んなの勝手に」
 俯いて、乱馬は呟きます。
 わかっているのです。母親の言っていることが正しいことぐらい。
 だけど、納得するのが悔しいのです。認めたくないのです。
 何故なんだろう。
 どうして。
 しょせん、ただの「人間」で、自分達に仇なす存在なのに。
 出て行ってくれたほうがよっぽどいいはずなのに。
 せめて、あかねが目覚めたならば──。
 あかねが自分自身の口から、帰ることを望んだならば。
 それならば、諦めもつくかもしれないのに。
 目覚めれば、謝ることだって出来るのに。
 そうすれば、こんな風にもどかしく悩んだりなんてしないはずだと乱馬は思いました。
 すっきりしないから。自分が悪者になったまま逃げられるみたいで、それが嫌なんだと思いました。
 そんな葛藤を意に介することなく、王子様はあかねを抱き上げようと、上体を起こします。くったりと垂れる頭を支え、とりあえず思いました。
「うむ。ここはまず僕の熱い思いを捧げるべきであろう」
 頬に手を添え、さあ、熱い口づけを──。
 その時でした。あかねの手がピクリと動いたのです。それに気づいたのは、かすみでした。
「あ、あかねさん?」  声に反応するかのように、もう一度手が動きました。目蓋もピクリと動きます。
 小人たちは王子を押しのけて、あかねに駆け寄ります。
 王子はどーんとはねのけられて、ごいーんと大木に頭を殴打し、そのままぽてんと落ちました。
 王子に抱えられた状態だったあかねもまた支えを失い、当然のように転がります。そこは柔らかい草地であったため、後頭部を強打することは避けられましたが、背中を打ちごろりと横向きになりました。
 それが幸いしたのでしょう。再び苦しそうに顔をゆがめたかと思うと、大きく堰をして、吐き出した息とともに、なんとリンゴのカケラが転げ落ちたのです。
「なんとっ」
「ひょっとして、これが原因だったの?」
 なんてことはありません。喉に引っかかっていたリンゴを取るだけでよかったのです。
 同じ「人間」ならば、上体を起こしてやることなど造作もないことですが、小人たちにとって、自分の倍ほどの背丈がある「人間」を起こして背中を叩いてやることは、そう簡単に実行できることではありません。
 それでもまあ、知っていたならば実行したかもしれませんが、骨の折れる作業だったことでしょう。
 喉に餅を詰まらせたじーさんみたいね、となびきが呟きましたが、そんな彼女ですら顔は嬉しそうです。

「──あ、あたし……」
 ゆっくりと身体を起こしたあかねが、ぼんやりと呟きました。
 自分は一体なにがどうなっていたんだろう? なにがあったのか、あまり思い出せません。
 周りにいる小人達が口々に声をかけ、それに対してもぼんやりと言葉を返すだけです。
 乱馬は、そんなあかねの様子を少し離れて見ていました。
 あかねが目覚めたら、ちゃんと謝ろうと思っていたにもかかわらず、いざあかねを目の前にすると、どういう言葉をかければいいのかが、わからないのです。
 躊躇っていると、あかねと目が合いました。ついさっきまで、どこかぼんやりと濁っていたあかねの目が、今は艶めいて輝いています。初めて見た時と同じ、大きくて黒い、吸い込まれそうな瞳です。

「ごめんね」
 あかねが言いました。
 あかねはちっとも悪くなんてないのに。
 悪いのは自分の方なのに。
 それなのにあかねは、こちらを責めずに己を責めているのです。
 乱馬は泣きたくなりました。
 どうして、どうして──

「……なんでおめーが謝るんだよ」
「だって、迷惑ばっかりかけてるし」
「だけど──」
 あかねが森を出ようとしたのは、おれがあんなこと言ったから。
 そう言おうとして、でもやっぱり上手く言えなくて、乱馬は言葉を呑みました。
「ねえ、ちょっと。大丈夫?」
 なびきが声をかけました。
 王子にです。
 地面に転がったまま動かない王子をゆすって、なびきは言いました。
「ねえ、ちょっと起きなさいよ。まだお礼貰ってないわよ!」
「──なびき、気絶してる人相手に、止めなさい」
 かすみがやんわりと注意し、早雲が王子を覗き込んで、呑気に言いました。
「白目向いてるけど、大丈夫なのかね、この青年は」


















 
次の章へ