時の振り子
時の振り子
1
もしも時間を行き来できるのだとしたら。
過去と未来。
あなたはどちらへ向かいますか?
*
「未来ね」と、なびきは即答した。
過去に興味はないわ、大事なのは明日。未来よ。
言っていることはひどく真面目だけれど、その例え方に問題があるような気がする。
「一日が過ぎるってことは、それだけ利息が生まれるってことでしょ。せっかくお金が増えたのに、どうしてなかった過去に戻らなきゃなんないわけ? 愚問だわ」
時は金なり、よ。
そう言うと、ふんと笑った。
「……あ、そう」
なびきの言葉に、やれやれといった風に息をついたあかねは、再び雑誌に目を戻す。
購読しているファッション雑誌に載っていた心理テスト。
YES・NOを選択して矢印を進めていき、行き着いた先が、あなたの性格。A〜Eの五つに分けられている──ありふれた形式のものだ。
こういったものは、ものによってまったく違ってくることはわかっているけれど、見つけるとなんとなくやりたくなってしまうのは、女の子ゆえの思考なのだろうか。事実、乱馬なぞは興味なしといった風でお茶を飲んでいる。
次の質問に移ろうかと思い開きかけた口から出る言葉より、乱馬の方が若干早かった。
「んなこったろうと思ったぜ」
「あら、失礼ね。じゃあ乱馬くんはどうなのよ。過去? 未来?」
「どっちも興味ねえ」
「それじゃ話が進まないじゃないの」
バカじゃないのといわんばかりの声色で言うと、乱馬は鼻白んだ様子で眉を寄せた。腕を組み、しばらく考えると口を開く。
「もし選べって言われたとしたら、過去だろーな」
「どうして?」
思わず、あかねは間に割り込んだ。
乱馬のことだからきっと、今よりももっと強くなっているはずの未来に行って、それを確かめるだとか、そんなようなことを言い出すのではないかと思っていたからだ。「おれは過去は振り返らない男だ」とかなんとか言っていたような気もする。
そんな乱馬が「過去」だなんて。どういう風の吹き回しだろう。
あかねが問い返したのと同じように、なびきもまた意外そうな顔つきで乱馬を眺めていた。
「どうして過去なの?」
「決まってんだろ。過去に行って、そんで今度は呪泉郷に行かねーようにすんだよ。そーすりゃ女にならなくても済むじゃねーか」
万事解決だ。
ふんぞり返って笑った。
その偉そうな笑い方は──本人に言ったことはないけれど──彼の父親・早乙女玄馬にどこか似ていると、あかねは思っている。
変身体質になる前にまでさかのぼり、それを阻止する。
そうすることによって、たしかに乱馬は水をかぶっても女にならない、普通の身体となるだろう。
でも、もしもそうなっていたとしたら──
「女にならない乱馬くんなんて、想像つかないわ」
「おめーの場合は儲けられないのが残念だわーとか、そういうことじゃねーのか」
「なんだ、わかってんじゃないの。わかってるんだったら──」ごそごそとポラロイドカメラを取り出すと、「新しいの、撮らせてよね」
「イ・ヤ・だ」
一言ごとに区切って断言すると、のそりと立ち上がり、乱馬は居間を後にする。
ちぃ、逃げたか──と、舌打ちするなびきの声が小さく聞こえて、溜息がもれた。
「なによ、あかね。元気ないわね」
「別に……」
「あ、わかった。乱馬くんが過去に行きたいって話でしょ」
「──え?」
なにを納得したのか、頷きながら姉はあかねの肩を叩きだす。
「ま、あの男に未来を求めるのは無理ってもんよ、あかね。あんたとしては未来へ行って、二人で幸せな家庭を築いているのかが一番知りたいことだろうけど」
「……な、そ、そんなの、関係ないわよ!」
神妙そうに言われたせいで瞬間気づかなかったけれど、理解した途端。頭に血が上った。
誰があんなやつ、なんであたしが乱馬なんかと、あいつ相手にどーとか、そんなことあるわけないじゃない、別にあたしは乱馬のことなんて、許婚ったっておとうさんたちが勝手に盛り上げてるだけで、本人同士で具体的にどーとか、そういう雰囲気とか、なによそれ、別にあたしは関係ないし、大体乱馬がはっきりしないからいつまでたってもこのまんまで──
トルコ行進曲のような、怒涛の思考回路。
口には出さない──出せないものの、とめどなく言葉は頭をめぐる。
乱馬乱馬乱馬乱馬乱馬……
手の中の雑誌をぎゅっと握り締め、勢いよく立ち上がり、叫んだ。
「と、とにかく、別に未来なんて気にしてないわよ。あたしだって──」
「あたしだって?」
「あ、あたし、だって……」
そうだ、あたしだって──
「……過去っ。過去の方がいいわよ。戻って、おとうさんにはっきり言って、許婚なんて冗談じゃないって、もっとちゃんと断れば、今みたいなこと、ないんだから」
「あんたね、なにを今更そんなつまんないこと言ってんのよ……」
「今更って、なによ」
「今更は今更でしょうが。それともまた出会いからやり直したいわけ?」
「──そ、そんなの、わかんないじゃない。だって……」
「だって?」
「もう、いいでしょ。とにかく、過去なの。失敗しちゃったこととか、今度はちゃんとやりたいじゃない。それに、もっと修行して──」
「はいはい、花嫁修業ね」
「っ、おねーちゃんっ!」
いつものことだ。
なびきはいつだってこうやって悟りきったように言葉を吐き、それはいちいち自分の感に触る。わざとそういった言い回しをして楽しんでいるのだ。
わかってはいるけれど、結局こうして頭に血が上ってしまう。
これ以上、問答を続けていると本当のことを言ってしまいそうで、あかねは雑誌を掴んだまま、居間を後にする。なびきが煎餅をかじる音が、障子の向こうから聞こえた。
*
苛立っているとき。
ついついドアにあたってしまう。
勢いよく閉めたドア。向こう側に吊るしてあるネームプレートが、まるでノッカーのようにコンコンと打ち立てた。
ベッドに腰かけて、あかねはひとまず大きな息を洩らす。
手にした雑誌はくしゃくしゃになっていたが、今しがた話題となった「過去と未来」の問いの部分は何故か目について離れない。筒状に丸めて、くせのついたページを戻し、申し訳程度に手でこすってしわを伸ばす。
そうして、改めて「心理テスト」を見つめた。
過去。
乱馬が過去に行って、そうして女にならない体質となったとしたら。
もし、そうなったとしたら。
乱馬とおじさまは、どうなっていたんだろう。
中国に行かなければ、シャンプーに出会うこともなかっただろう。
そうなれば、今ここにシャンプーもいないし、ムースもいない。猫飯店だってなかっただろう。
右京とはもっと幼い頃に出会っているようだし、良牙とは学校が同じだったと言っていた。
女にならないとしたら、九能先輩に追いかけまわされることもないだろうし、その他、様々なことも変わっていることだろう。
けれどそれは「もしも」の話。
他の可能性だってあるのだ。
乱馬がうちにやって来るとは限らない。
そういう可能性だって、たしかに生まれるのだ。
「また出会いからやり直したいわけ?」
さっきなびきはそう言った。
でも、それは「乱馬がうちに来れば」の話だ。
乱馬が来た時のことは、覚えている。
忘れようったって、忘れられるわけがない。
けれど、それは「女の子とパンダ」という組み合わせだからこその「出会い」
そうじゃない、男の子としての乱馬との出会いだなんて、まったく想像がつかなかった。
あの頃の──、男なんてみんな同じだと思っていた頃の自分。
自分本位でこちらの事情などお構いなしで挑みかかってくる男子生徒たち。
男なんて嫌いだった頃。
東風先生が好きだった、あの頃。
そんな自分が、乱馬を許婚として紹介されたとしたら──
首を振って、肩を落とした。
脱力して、そしてそのまま仰向けにベットに倒れる。
(……反発して、絶対いやだって、そう言ってるだろうな)
天井の木目を見ながら、胸中で呟いた。
冗談じゃない、男なんてどうしようもない。
そう言って、乱馬を知ろうとするより前に、拒絶していたに違いない。
決めつけて。
見ようともせずに。
考えようともせずに。
東風先生のことしか、思おうとはしなかったに違いない。
先のない恋だと知りながらも、
僅かながらの希望の糸にすがりつづけていたに違いないのだ。
だが、乱馬が現れなかったとしたら──
そうだったとしたら、今の自分は何を想い、何を考えていただろう。
「……やっぱりまだ、東風先生のこと、好きでいるの、かな」
あきらめきれず。
引きずったまま。
勢いをつけて、上体を起こした。
抱えていた枕を抱き直して、考える。
今、自分がこうしていること。
東風先生への気持ちに区切りをつける。
その決心を──勇気をくれたのは、間違いなく乱馬の存在だ。
乱馬が好きなのかと問われたら、
あの時の自分は「否」と答えるに違いない。
乱馬だってきっとそうだ。
「許婚」なんて言葉、気に止めてなんていなかった。
それを意識するようになったのは、いつだっただろう。
はっきりとはわからない。
いつの間にか。
その言葉は曖昧だけれど、それ以外には言い様がないかもしれない。
どっちつかず、はっきりしない。
線引きのできない、不鮮明な関係。
考えているうちに、あかねはわからなくなってきた。
出会ったばかりの頃の自分と乱馬。
今の自分たちと、過去の自分たち。
その距離は、結局のところ、なにひとつとして変わっていないのかもしれない。
乱馬は相変わらず口が悪いし、すぐに意地悪なことばかり言う。
そういう彼に反発して、手を上げて、怒鳴って。
そんな関係をずっと引きずったまま、ここまで来た。
(……例え未来に行ったとしても、きっと乱馬とは今のまんまなんだろうな)
世間一般的な「恋人同士」な自分と乱馬だなんて、想像がつかない。
というよりも、そんな乱馬は在りえないと、頭の奥底であきらめている。
羨む気持ちがないといえば、それは嘘になるけれど、今のままがいいと思う気持ちもどこかにあるから。
「もう、なによ乱馬のばか!」
もやもやする気持ちを振り切るように、あかねは天井に向けて叫んだ。
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