蜂蜜たっぷりのトーストで −1−



     蜂蜜たっぷりのトーストで




  <1>


 あっけないの。
 ぽつんと呟いてみたくなるほど、それはとてもあっけない幕切れだった。
 考えてみれば、至極当然で、当たり前のことだったのに、
 当たり前が当たり前すぎて、別の当たり前に気づかなかった。
 なんだかややこしいけれど、つまり簡単に言うと、

 乱馬は喧嘩したまま、あっさりと自分の前から姿を消した。



 もうちょっと、やり方っていうもんはないんだろうか。
 遠ざかる姿をカーテンの隙間からこっそり覗き見ながら、あかねは思う。
 やり方。
 やり方って、なんのやり方?
 正しいお別れの仕方なんて、知りたくもない。
 だって、別に永遠のお別れじゃないんだから。
 縁起でもない。死んじゃうわけじゃあるまいし。
 むかむかと考えて、部屋の中を無意味にぐるぐると歩き回り、あかねはひたすらに逃げていた。
 何にって──、現実から。
 もう、乱馬は帰ってこないんだっていう、そのわかりきった──だけど、やっぱり認めたくはない現実から。
 けれど今のあかねの頭は、「喧嘩」の文字に支配されていて、乱馬が消えた隙間のことなど、思いやる余裕がなかった。ただ、いつものように喧嘩して、いつものように怒っているふりをして、いつものように顔をそむけただけで、それは彼女にとって当たり前だったから。その「当たり前」が欠けたことが、どれだけの隙間を生み出すのか、考えてもみなかったのだ。
 階下から、家族の声が聞こえてきた。
 早乙女一家を見送って、家の中に入ってきたのだろう。
 このまますぐに下に降りると、「どうして見送らなかったの?」と、ぐちゃぐちゃと言われるのは目に見えている。それに対して、怒りを自制するのはきっと無理だ。また余計に意固地になって、ますますイヤな気分になるだけだ。
 そんな部分だけはひどく冷静に分析して、あかねは椅子に腰かけた。
 机には、夏休みの宿題が積み重なっている。
 昨日はなんだかちっともやる気が湧いてこなくて、結局ノートを閉じてベッドに倒れ込んで、そのまま寝てしまった。おかげで服が皺だらけになった。これもすべて、乱馬のせいだ。
 むか。
 自分の思考に腹が立った。
 ノートをめくる。たまたま開いた部分が、随分と汚れて皺になっているのを発見。
 そういえば、乱馬が「見せてくれ」とひょいと取り上げたのに腹を立てて、「返しなさいよ、泥棒」と引っ張りかえした時に、ぐちゃぐちゃになったんだと思い出す。これまた乱馬のせいだ。
 むかむか。
 そういえば──
 椅子を反転させて、部屋のドアを見る。
 乱馬がぶつかったせいで、実は微妙に凹んでいるんだ。どうしてくれるのよ。
 それに本棚。
 きっと、視線を右に45度動かす。
 なにかにつけて暴れて、よく本棚を引っくり返す。元に戻しなさい! というと、しぶしぶ戻しているけれど、並べている順番がめちゃくちゃで、結局自分で直す羽目になるんだ。二度手間じゃないの、もう。  今度はドアの左側にまで目を動かす。
 カレンダーは一体今年に入って、幾つめだろう。
 こんなに年から年中破れた代わりのカレンダーが必要になる家なんて、めったにないわよ。
 折角かわいいカレンダーを買っても、買っても買っても買っても、最終的には近所の薬屋さんの無骨なカレンダーに落ち着くのだ。つまり、余り物。
 どうして女の子の部屋のインテリアのひとつであるカレンダーが、記念日カレンダーだったりするんだろう。何月何日が、何の日だろうと、知っていてもあんまり役に立ちはしない。
 かわいいフォントの数字じゃなく、極太の明朝体のカレンダーなんて、見ててもちっとも和まない。どうしてくれようか。
 怒涛のように怒りが湧いてくる。
 そうだ、そう。
 もうこれからはこんなことないんだ。
 あたしの部屋は、平穏を取り戻す。Pちゃんとゆっくりできるんだ。
 半ば無理やりあかねは納得すると、階段を下りた。






 天道家の朝は、和食が多い。
 けれど今日の食卓は、洋食だった。
 お米がないのよ──と、本気なのか冗談なのか微妙な発言をした長女かすみは、人数分のトーストを焼きながら、思い出したように呟く。
「なんだか物足りないわね……」
 六枚切りの食パン。
 いつもならば、一食で完売するはずの量。
 早乙女親子と天道一家。合計六名で。
 けれど、今日は二枚余っている。
 意外なところで「抜け落ちた後」というものを実感し、かすみはしみじみと思ったのだ
 余ったパンの活用法――、ハンバーグの繋ぎにでも使おうかしら、などと考えながらも、別の頭ではちゃんと思い悩んでいた。
 自分でさえこう思うのに、あかねは一体どう感じているのだろう、と。
 こんな時でも素直じゃない妹のことだから、しばらくは意地を張りつづけるだろうけれど、いつまでそれが持つだろうか。少し心配になった。
 意地を張るのはいつものことだけれど、今回はその意地を張る相手が隣にいない。修行に行っていてそのうちに帰ってくるわけでもなく、もう彼が「居候」として天道家へ戻ることはないだろう。
 そうなった場合、あかねはどうするのだろう。
 意地を張るだけ張りつづけて、そのうち壊れてしまわないだろうか──
「……しょうがないわね、二人とも」
 寂しく笑って、かすみはトースターのスイッチを回した。


 *



「他人の不幸は蜜の味」
「……なによ、それ」
「別に。なんとなく」
「不幸なんかじゃないもん」
「あんたのことだとは言ってないでしょうに」
「言ってなくても言ってるわよ」
「心当たりあるんだ」
「だから、不幸じゃないってば」
「じゃあ、気にしなきゃいいじゃない」
 突き離すように言って、なびきはトーストをかじった。
 カロリーハーフのマーガリンを薄く塗っただけのトーストは、少々味気ない。スクランブルエッグと一緒に食べて、その後でサラダを二口。そしてまたトーストをかじって、薄めのコーヒーで流し込む。
 黙々と食べていると、斜め前にいるあかねが自分を見ている、じっとりとした視線を感じた。敢えてそれを無視していると、諦めたのか、あかねは自分の食事を再開する。
 蜂蜜をたっぷり垂らしたトーストは、なびきから見れば甘すぎる。あのねっとりとした歯ざわりは、トーストには不向きだ。サックリした食感こそがトーストの醍醐味なのである。
 もさもさと、なんだか美味しくなさそうな顔をして食べているあかねを見て、なびきは内心でため息をついた。
(落ち込むぐらいなら、喧嘩なんかしなきゃいいのに)
 なびきから見れば、あかねも乱馬も、バカそのものだ。
 二人っきりにしてなにかあると、父親のように短絡的には考えてはいなかったけれど、だからといってあそこまで険悪に喧嘩をするとは思っていなかった。出会ったばかりの頃ならともかくとして、今の二人ならば、それなりにしんみりと話し合うことぐらいは出来るのではないかと、自分もかすみも思っていたから。
 見送りにも来なかったあかねもあかねだし、それをやせ我慢している乱馬も乱馬だ。
 どっちもどっち。
 似たもの同士ならば、相手の考えていることぐらいわかりそうなものなのに、どうして思っていることと真反対のことばかりするんだろう。
(素直に思ったこと、言えばいいじゃない)
 まあ、それが出来ないからこそのあかねなのだろうが、時として、とてつもなくもどかしい。
 自分のことじゃないのにもどかしい。
 自分じゃないからこそ、もどかしいのかもしれないけれど。
 ただ、その「もどかしさ」を一番痛感しているのは、他ならぬあかね本人であることは間違いない。
 蜂蜜の味がこんなにもうざったく感じるなんて初めてだった。
 食事がちっとも美味しいと思えない。
 それがひどく罪悪感を生む。
 せっかく作ってくれた朝食なのに、美味しくないなんてひどいよね。
 手を動かして、半ば機械的に口に運びつづける。
 食べて、飲んで。食べて、食べて、食べて、飲む。
 視界の隅が空いている。
 瞳の端にいつも映っているはずの人影がないのが、夏なのに寒々しい。
 ぐっと何かを飲み込むと、大きな口でトーストにかぶりつく。
 飲み込んでしまえばいい。
 朝食も、不愉快な気持ちも、涙も、乱馬のことも、なにもかも。


 蜂蜜は、ちっとも甘くない。



NEXT