蜂蜜たっぷりのトーストで −2−
蜂蜜たっぷりのトーストで




  <2>


 シュッと風を切る音がする。
 思いっきり回した脚が気持ちよく伸び、引っ張られることもなく重心を据えた腰で、勢いを殺す。
 上げた足を下ろし、下ろした足を一歩半後ろへ引いて、手を腰に、拳を握り、枝にぶら下っている木片に掌底を叩き込む。揺れる木片に二手。跳ね上がるそれに向かい、腰を落とし跳躍。右からの回し蹴りが決まって、バチンと大きな音がした。
 くるくると大車輪を描いて枝に縄が巻きつき、すっかり短くなってしまった木片は、あかねの背では届かなくなる。

 下手くそ。

 自分で、誰かの言いそうな台詞を呟いた。
 呟いてあかねは、道場の縁に腰かけた。
 見上げた空はいいお天気。青い空、白い雲、眩しいほどに輝く太陽。今日も暑くなりそうだ。
 そのままぱったりと後ろに倒れ込み、今度は道場の天井を見つめた。
 影になった部分は、ほんの少しだけ冷たい。だけど、この暑さだ。きっとすぐに蒸し風呂みたいになるだろう。
 見上げていると、目が回りそうになる。
 だだっ広い道場に、たった一人。
 上を見つめて、たった一人。
 蝉の声が響く。
 わんわんと響いて、木霊している。
 それが頭の中でしゃわしゃわと、さざなみのようにうねり、波紋のように広がっていく。
 どこまでも、無限に。
 天井の隅。
 日の光が当たらない、黒い部分。
 陰。
 その一点を見つめる。

 ざわざわざわざわ……

 音を立てて、なにかがやってくる。
 黒い、なにか。
 虚ろになった瞳に向かい、
 空虚になった心に向かい、
 見えない、陰がやって来る。

 ガタン──

 入口の引き戸が開いて、あかねの瞳は明るさを取り戻した。
 けれど、まだ身体を起こすまで気力は回復しておらず、ただ仰向けになったままで、顔だけを横へ傾けた。
「ここにいたの、あかねちゃん」
「かすみおねえちゃん……」
「もうすぐお昼御飯だから、シャワー浴びて着替えてらっしゃい」
「おひる……?」

 まだ。
 まだ、お昼なんだ。

 ぼーっと、そう思った。
 朝ご飯を食べたのは、もうずっとずっと前のことだったように思うのに。
 もう、夕方ぐらいでもおかしくないぐらいに前だったように思えるのに。

 どうしてこんなにも時間の流れが遅いんだろう……。





 やっぱり味気ない昼食。
 喉越しがいいはずの素麺が、今はなんだかゴムを噛んでいる気分だった。
 蝉の声が聞こえる。
 こんなにうるさかっただろうか。
 いつもこんなに、やかましいぐらいに鳴いていただろうか。
 近所中の蝉が集まってきたみたいに、今日はやけに耳に突き刺さる。


「蝉、うるさいね」
「いつものことでしょ」
 あかねが言うと、なびきは素っ気なく答えた。
「でも、なんかいつもよりやかましい気がする」
「そう? 普段は、どっちかっていうと、あんたの方がやかましいからじゃないの?」
「なびき」
 かすみがやんわりと叱咤すると、なびきは小さく肩をすくめて、素麺をすすった。
 あたしのどこがやかましいのよ。
 そう返そうと思って、言葉に詰まった。
 墓穴を掘りそうだったから。
 気づいてしまったから。
 イヤになるぐらい、痛感したから。
 だから、あかねは何もいわずに素麺をすすった。
 薬味のネギがちょっぴり苦くて、泣きたくなった。


 認めるのはシャクだけど、認めたほうが楽かもしれない。
 でも、やっぱりまだ認めたくない。
 昨日の今日で、認めたくない。
 寂しいだなんて。
 乱馬がいなくなって、哀しくて寂しくてたまらないだなんて。
 どうしたって、認めたくはない。
 無意識にそういった気持ちが働くのだろうか。
 それからのあかねは、ある意味吹っ切れたような態度で話し、笑い。さも、なにもなかったかのような態度を取りはじめた。
 なんてわかりやすいんだろう。
 家族はみんなそう思ったが、それを言うのは止めた。
 声をかけそうになる父や、つい口を出しそうになるなびきを止めたのは、かすみだった。
「今日ぐらい、何も言わないであげましょう」
 そう言って笑う長女の頭には、すでに小さな計画が進行していたことなど、この時点では誰も気づいていなかったのである。



 *


 暑いなあ……

 ベッドに仰向けに寝たまま、胸の内で呟いた。
 こんなに頭がぼーっとするのは、きっと暑さのせいだ。そうに違いない。
 すっと手を天井へかざす。
 指の隙間から木目が見える。
 もう一方の手も伸ばして、重ねてみる。

 手は、感情を表すのだろうか。

 ふと、そんなことを思った。
 幸せなら手を叩こうとか、
 手と手のしわをあわせて、「しあわせ」とか、


 あんたの場合、「しわ」っていうより、「節」じゃない。
 だったら、「ふしあわせ」なのよ。


 いつだったか、自分が乱馬に向けて放った言葉だ。
 人を呪わば、穴二つ。
 言葉は、自分に返ってくる。
「不幸せだ……」
 呟いてみた。
 握り拳を突き合わせて、何度かぶつけ合う。
 女の子にしては無骨な部類に入るであろう関節。
 あかねはむっくりと起き上がった。
 昨日からずっとこんな風に、考えたり落ち込んだりしている自分がイヤになる。
 どうしようもないとわかっているけれど、
 どうしていいのかも、よくわからない。
 乱馬がいない、そのことが、心の負担になっていることは、本当はわかっているけれど。
「……ばか。乱馬が、悪いんだから……」
 結局あかねは、そう呟いた。

 どれだけ乱馬を悪者にしたって、乱馬はもう帰ってこないのに──



 *



 木の天井というものは、どの家も似ているようで、実は全然違うんだということに気づいて、気づいた事実をぼんやりと反芻した後に、「ふーん」と胸のうちで呟いてみた。そういうもんなんだな──と。
 だからどうだというわけでもなく、今まであまり考えてみたことがなかったけれど、「家」というものは──「自分の家だ」と思う気持ちというものは、表札に記されている名前なんかじゃないんだ、と。そんな風に思ったのだ。過ごした月日が物をいう。
 ごろりと寝転がったままで乱馬は、そのまま寝入るわけでもなく、ただぼんやりと天井の一点を見つめている。よく穴を開けては、泣きながら補修する天道早雲の姿を思い出して、ふっと口元が緩んだ。
 自分達親子が居なくなれば、そういった被害も少なくなるんだろう。
 らーんーまーくぅ〜んと、面妖な顔で凄んでくるのは、別に自分だけが悪いわけじゃないはずだった。たしかに窓やら屋根やらが倒壊するのは自分の身体かもしれないけれど、おれだって被害者でいと口を尖らせて、そのまま今度は困惑に顔を歪める。
 被害者と加害者。
 被害を受ける自分。
 被害を与えるのは、

(……あかね)

 昨日から考えては止めて。
 止めたつもりでも、いつもどこかで引っかかっているのは、喧嘩別れしてきた許婚の顔だった。
 なんでい、別におれは悪くねーんだからな、と。
 そう考えている時点ですでに悪いと思っている証拠なのであるが、認めるのが悔しいのか負けた気がして嫌なのか。意識的に彼は避けていた。
 避けてはいたけれど、態度には丸出しで。
 考えれば考える度に深みにハマり、その背後で母親が刀を手におろおろしていることにも気づかないぐらいに、今の彼には余裕がなかったのである。

 木目も模様が違う天井。
 違う種類の電灯。
 見慣れない位置にある柱と、異なる絵柄のふすま。
 褪せ方の違う畳と、障子。
 足の裏が伝える、歩きなれない廊下。

 ここはたしかに「早乙女家」であるにも関わらず、どうもしっくりこない。
 自分の家という気がまるでしない。
 遠い親戚の家に泊まりに来ているような感覚。

 そして、そんな風に感じている自分がなんだか非人道な気がして。

 やっぱり乱馬は、大きなため息を落とした。


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