蜂蜜たっぷりのトーストで −3−
蜂蜜たっぷりのトーストで
<3>
「届け物?」
「そう、乱馬くんの分。干したままだったから、渡しそびれてたの」
そう言って差し出されたのは、見慣れた乱馬の服だった。
洗濯物。
早乙女親子は、もともと「荷物」と言えるものがとても少ない。
天道家にも、修行用のリュックひとつでやって来たようなものだ。一通りの服と持ち運びの効く生活用品。いわゆる「家財道具」と呼べるものは持っておらず、この家で二人が使用していた物は、家にあった物が九割を占めていたのではないだろうか。
最初の頃はそれこそ、根無し草ってこういう人達のことを言うのかしら――と思ったものだった。
玄馬なぞは、あの性格からいって、こういうったことにまるで頓着していないように思えたけれど、「何もない生活」が日常だった乱馬は、この家にやって来た当初は、いちいち何かに感動していたような気がする。
風呂だとか、トイレだとか、三食御飯に、布団。
変なヤツ。
あかねは冷たくそう思ったけれど、今になって考えると、なんだか乱馬が不憫にも思うのだ。
自分にとっては「あって当然」だと思っているものも、人によってはそうじゃないんだ。
そんなことに気づいて、自分は浅はかだったと少し反省した。
逆に、あって当然だった物がなくなってしまうこともまた、大きな損失で。パズルのピースが埋まらないような、最後の欠片を失くしてしまったような。そんなやるせない気持ちになるんだと、ここ数日でひしひしと痛感している。
そんな中、久しぶりに触れた「乱馬」だった。
極力考えないようにしていたし、早乙女親子が使っていた部屋も意識的に遠ざけていた。
思い出すから。
思い出したくないから。
けれど、記憶というものは、小さなキッカケで大きな何かを連れてくる。
乱馬の服。
それこそ、見慣れた物で。何度も見て触れて、洗って干して取り込んで畳んで。
そんな風な、なんでもないもののはずなのに。
けれど、それをキッカケにして、あかねは様々なことを思い出した。
ずるい。
乱馬はずるい。
居たたまれなくなって、あかねは姉の顔を見た。
のほほんと笑うかすみの顔はいつもと同じで。笑顔の裏には「会いに行ってきなさいな」という言葉があるのは目に見えてわかるのであるが、わかるからこそ素直に受けるのは、なんだか悔しい気がした。
なんと返そうか迷うあかねに、その後ろからなびきが顔を出し、あっさりと言う。
「行って、ついでに仲直りしてきたら?」
「べ、別にあたしは──」
そう言いながらも、届け物を手に出かけたのは、姉の目論見に乗ったから──というわけじゃない。決してそういうんじゃないんだから。
だけどなびきの言葉は、いつもみたいなからかいまじりの声じゃなかったから──。
なにうじうじしてんのよ、と。呆れたように、優しく笑うように。損得勘定で動く姉にしては珍しく、素直に応援してくれていたような気がしたから。だから、それに後押しされるように出てきてしまった。
歩きながら、あかねは思う。
そうだ、そうだ。
行って、そうして文句のひとつも言ってやればいい。
いつもみたいに怒って言い争って。
──だけど、決して本気じゃなくて。
顔を見て文句を言い合っているうちに、きっとまたいつもみたいになれるだろう。
そこに、いるから。
すぐそこに居さえすれば、ただのいつもの口喧嘩になる。
きっと、簡単なことだ。
だんだんと気分が高揚してくるのがわかった。
ずっと梅雨空みたいに、じめじめと落ち込んでいたのが嘘のように。
まずなんて言えばいいのかな。
変なの。乱馬に声をかけることに戸惑うなんて、なんだかおかしい。
こんちには、なんて。他人行儀だよね。
自分が行けば、乱馬はどんな顔をするだろう?
きっと「何しに来たんだよ」って顔をして、わざとそっぽを向いたりして。だけどきっと、逃げ出したりはしないはずだ──と、あかねは確信に近い気持ちでそう思った。
乱馬だって、自分と同じ気持ちでいるに違いない、と。
「あかねが?」
「そう、今から来てくれるって」
受話器を置いて振り返り、ニコニコと嬉しそうな母親は、乱馬にそう告げた。
へー、そう。
などと気のない返事を口にしながらも、ゆるむ頬を抑えられない。
けっ、なんでーあかねの奴。思ったより根性ねえじゃねえか、はっはっは。
あかねがやってきたらどう対応しようか。
まあ、あいつが謝るってんなら考えないでもないけどよ。
普通に考えてみれば、あの天道あかねが、自分と同等の意地っ張りの許婚が。素直に謝罪するとは到底思えないのであるが、彼の頭の中では、しおらしく可愛いあかねが「ごめんなさい、乱馬。あたし、本当は寂しかったのっ」などと言いつつ、よよよと泣き崩れる様を想像して、こちらは踏ん反り返って寛大な心で許してやるという、そんな非現実な図を幾つかのパターンで想定しては、ふははは、と笑っていた。
せっかくだから一緒に御飯食べてもらおうかしら、それとももう食べちゃった後かしらね。どう思う、乱馬?
お客様を迎えるのが嬉しいのか、それともその相手が将来の娘だと思うから嬉しいのか。のどかが、そわそわと問いかけてくるのも耳に入らないほど、乱馬は心ここに在らずの状態だった。
そんな彼の脳内シミュレーションは、引越しの挨拶という名目で押しかけてきた、小太刀・右京・シャンプーによって脆くも打ち砕かれた。
「まあ、乱馬のお友達なの?」
と、のどかはこれまた嬉しそうに相手をしている。
どうやら先ほどの言葉も、相手があかねだからというわけではなく、ただ単に「人数が増えると嬉しいわ」という、単純な喜びに過ぎなかったらしい。
もてなさなくってもいいんだよ、別に。
ぶすっと呟いてはみるものの、面と向かって「帰れ」とも言えないのが、乱馬である。自称ナンパの帝王であるが、実際は女の掌で転がされているに過ぎないことを、彼だけが知らない。
じりじりと時間が過ぎる。
さっきの電話から、何分経っただろう?
天道家からここまで、あかねの足から考えて、何分かかるだろうか。
ちらりと柱時計を睨むと、秒針が0秒を回ったところで、ゆっくりと短針が一歩位置を変えたところだった。
カチリ、と。普段はあまり気にならないような小さな音のはずなのに、妙に大きく胸に、頭に響く。
あかね。
あかねは、どうしただろう。
ごくりと唾を呑む。
どう考えたって、この状況はまずいのだ。
せっかくあかねが来るのに。
せっかくあかねに会えるのに。
せっかくあかねの顔が見られるのに。
あかねの顔が見れたところで、この状態では笑顔は望めない。膨れっ面か、いや、憤怒の顔だ。しげしげと眺める暇もなく、殴られるか蹴られるかして、自分は床に沈むか空へ舞うか。どちらにしろ、あかねはきっと帰ってしまうに違いない。
(それじゃ、意味ねーじゃねえか)
「……おめーら、なんでよりによってこんな時に来るんだよ」
「こんな時て……」
「どんな時か?」
つい漏れた言葉尻を捕まえて、右京とシャンプーが問いかけてきた。
ここで「あかねが来るから」とは決して言えない。
言えば、居座るどころか、あかねがやって来た途端、攻撃態勢に入るかもしれない。
だからといって、言わなければ言わないで、しばらく帰りそうにない様子である。小太刀なぞはすでに、「お義母さま、私がお手伝いいたしますわ」と、のどか相手に売り込みに余念がない。予想されるパターンとしては、ここに右京とシャンプーが加わって、三人が三人で「一番役に立った者、認められた者が、乱馬の花嫁になる」という三人の中だけの勝手な取り決めが成立し、掃除洗濯料理が始まることだろう。そしてきっとのどかは、「まあ、みんな優しい子ね、乱馬」と、のほほんと笑うに違いない。
カチリと、また短針が進む。
まさに、刻一刻とあかねが近づいてきているはずなのに、状況を打開できる方策が見つからない。
くそう、早乙女乱馬、最大のピンチだぜ。
一体、どうすりゃいいんだよ。
はあ。あか――
ね、と胸のうちで紡ぎ終える前に、乱馬は一瞬意識が飛んだ。
何が起こったんだろう?
そう思いながらも、どこかで懐かしい感覚があった。
ああ。これはいつものことだ。
これもまたいつものパターンだ、と。
心が自分に告げていた。
「ねえ、乱馬。あかねちゃん遅いわねぇ。母さん、ちょっと外見てこようかしら」
「――もう、帰ったみたい」
今になって思い出したように言う母親に、「だったらもっと早く見に行ってきてくれよ」と、乱馬は思った。
ブロック塀よりもっと軽いもんねえのかよ――と、顔を合わすことなく帰ったあかねに恨みをぶつけながら。
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