邪悪の鬼、再び 前編
邪悪の鬼、 再び
「お願いがあるのです」
のっぺりとした、能面顔。
烏帽子を頭に、あまり深刻そうにも見えない顔と為りで、その人物は詰め寄った。
前編 邪悪と衝動
その昔。
「さる高僧」が「邪悪の鬼」を升へと封じ込めた。
一度は切れかかった封印であったが、妖怪退治は武道家のつとめ──という、無差別格闘流の面々により、鬼は再び封印された──はずだったのだが……
「また封印が弱まったとでもいうのですか?」
「そうではないのです」
天道家の居間。
机越しに向かい合う天道早雲と、男。
その様子を横から眺めるのは、早乙女親子。
彼らが、無差別格闘流の使い手である。
机の上には、箱。
時折、ガタガタと揺れ、その振動で机上の湯呑みがカタカタと音を立てる。
いつもならば「お茶をどうぞ」ともてなす立場にある長女の姿は、今日は見当たらない。
この場にいるのは、男達のみであった。
「ならば、何故またこの鬼を我らの元へ?」
「見ておわかりになるかと思いますが、これは、封印用の升ではありません」
たしかにそれは、ただの木箱だ。
箱を括るようにして十字に紐がかかっており、上蓋には「豆」の札がぺたりとある。
年代物という風にも見えないが、新しいものでもないらしい。よく目をこらしてみれば、箱の横には「たからもの」という子供のような字が記してある。ついでに言えば、ところどころから釘が跳んでいる──日曜大工のなりそこないに近い箱だった。
「実は、これは簡易的に封印をほどこしているだけなのです」
「そのようですなー」
「本来封印すべき升なのですが、何故か底が抜けてしまい──」
「……なぜもなにもねーじゃねーか」
「何故か底が抜けてしまい、悪戦苦闘の結果。なんとかここに封じたのです」
乱馬の呟きを無視し、声をはりあげて彼は汗を拭う真似をする。
ぷっかりとタバコを吹かしながら、早雲は訊いた。
「で、なんなんですか」
「お願いがあるのです」
*
「なんで預かっちまったんだよ、おじさん」
「妖怪退治は武道家の努め」
「一日だけの辛抱じゃ、こうして見張っていれば大事には至るまい」
机上の箱を三方から見ながら、男達が輪になっている。
新たな、頑丈な升を作るため、一時的にこの箱に封印している「邪悪の鬼」。なにかあってからでは遅いということで、以前この鬼を封じる際に世話になった、天道道場を頼ってきたらしい。升が完成する明日まで、その間だけ、この「鬼」を見張っておいてほしい──と、そういうわけだった。
「ったく、安請け合いしちまって。こーんなぼろっちい箱で、ほんとに封印できてんのかよ」
「こりゃ、触るでない、乱馬」
人差し指でちょいちょいと突付こうとする息子を、玄馬が諌める。
「別の箱にでも入れておけば大丈夫だろう。なーに、彼も言ってたじゃないか、強い衝撃を与えないかぎり、大丈夫だと」
「そーだよな、黙っておいて見てりゃいーんだよな」
「そうじゃ、落としたり、叩いたりなぞ、するわけがない」
「そうそう、ましてやこの箱を踏んづけるなんてこと──」
「大漁じゃ〜い」
はっはっは──と笑い合う一同の前に、ひょーいと現れた八宝斎(年齢不詳)が、風呂敷を背に抱えて彼らの前に降り立った。
ばき。
軽い破壊音。
そして、溢れてくる禍々しい妖気。
「なんじゃ、なんじゃ。おぬしらなにをそんなに青い顔をしておるのじゃ?」
「てめーのせいだ!」
遠慮会釈なしに、乱馬は師匠の頭を殴りつけた。
「まずい、封印が解けてしまうぞ」
「別の箱かなんか、ねーのかよ」
そうこう言っているうちにも、流れ出る妖気の量が増えていく。
この気──ピリピリと肌を刺すような、この妖気だけで考えると、なるほどたいした妖怪だとも思うのだが──
すぽーんと、「邪悪の鬼」が姿を現した。
丸みを帯びた、ボールのような体型。子供の落書きのような顔のそれが、ゆらゆらと浮遊する。そして一度跳ねると、一番近くにいた玄馬に取り憑いた。
「おやじ!」
「わっははははは。悪の衝動が込み上げてきたぞ」
角を生やした早乙女玄馬は素早く移動すると、部屋の隅のタンスの引き戸を引く。そしてそこから小さな円筒形のもの──いつも小銭を貯めている筒を取り出だすと、逆さにした。
ちゃりーん
一枚の十円玉。
「この十円はわしのもんじゃー!」
「みみっちい真似してんじゃねえ!!」
ばきぃ
息子の蹴りが炸裂した。
その衝撃で、鬼が離れる。
「ちょっと、何騒いでるの?」
気だるそうにやって来たのは、天道家の次女。
「なびき、危ねえ!」
「え?」
訝しげに眉をひそめたなびきの眼前に、鬼。
目を見張るなびきの頭で、鬼が消えた。
「な、なびき!」
「ふふふふふ、どうしてかしら。急に悪の衝動が込み上げてきたわ」
ゆらりと身体を動かし、上げた顔には笑み──にやり、と称するにふさわしい笑みを浮かべて、なびきが微笑んでいる。普段から「邪悪」と称しても差し支えないような言動が見られるなびきである。それが鬼に取り憑かれたとなれば──
道場を売り払い、左内輪で笑う図
サーカスで玉乗りをするパンダの図
きわどい下着で写真を撮られる少女の図
各々の脳裏に、おぞましいビジョンが浮かんだ。
このままでは、破滅である。
「ど、どーしようか早乙女くん」
「まさか、なびきくんを殴るわけにもいかんしなあ」
「おとーさん」
「ひいぃ、な、なんだい、なびき」
「肩でも叩いてあげようか? 爆安価格の一万円で。ああ、おじさま」
「な、なんだい、なびきくん」
「おじさまのために、いい育毛剤を見つけたの。教えてあげましょうか、五万円で。ああ、それから乱馬くん」
「な、なんだよ、なびき」
「おさげの女・豪華写真集第三版の締め切りがもうそろそろなの。とびっきりのを撮らせてくれないかしら?」
と、差し出したるは、豪華装丁のアルバム。金文字で「第三版」とある。
「なんじゃこりは」
「いい値で売れるの」
「そーゆーこっちゃねーだろ」
「いいじゃないの、減るもんじゃなしに」
そしてくるりと振り返ると、父親に向かって微笑んだ。
「ねえ、おとーさん。実印っておかあさんのタンスの引出しの一番奥に、底板で隠してるのよね?」
「ひぃいぃぃ」
「どーしたの、おとうさん」
ばたばたと走ってきたのは──
「あかね!」
「来ちゃいかん、あかねくん」
「え?」
ひょいと顔を出したあかねであったが、姉の頭に角を見出して固まった。
「おねーちゃん、角……」
「──あら、あかね」
いい獲物が来たわね──という顔で振り返るなびきの視線から隠すように、その延長線上に乱馬が割って入る。おさげが揺れる背中を見ながら、あかねは乱馬に問いかけた。
「ちょっと、どーなってるのよ」
「鬼だよ、鬼」
「鬼?」
手短に説明をすると、あかねが言った。
「封印のお札は?」
「──あ」
壊れかけの箱を取り、八宝斎のせいで皺が寄ってしまっている「豆」の札を手にすると、早雲は次女の額にぺたりと貼った。
すぽーん!
鬼が離れる。
「しまったぁ、まだ鬼を隔離する箱も見つかってないのに!」
「もっと考えてからやれよ」
離した後で大仰に後悔する早雲に、つい口を挟む。その間に鬼はと言えば、ふよふよと浮遊し、そしてあろうことか未だ転がったままだった八宝斎の頭で消えた。
「し、しまったぁあ」
「おう、なんかわらかんが、急に悪の衝動が込み上げてきたぞい」
あかねに、なびきを部屋の外まで連れて行かせて、男達は身構える。
八宝斎。
邪悪の塊だ。
その上をいく邪悪とはなんだろう。
今までに起こった数々の「邪悪」っぷりを思い起こして、早雲と玄馬はばたばたと慌てだす。
「ええい、落ち着きやがれ。要は、じじいをぶん殴ればいーんじゃねーか!」
「簡単に言うが、お師匠さまが本気になれば」
「我らが敵う相手ではない」
殴る殴れないはともかくとして、それ以前になにかに封じ込めなければならない。もう、あの箱は使えないだろう。一同がきょろきょろと部屋を見回していた時だ。
「乱馬、おとうさん。封印のお札──」
がらりとあかねが障子を開ける。
「おう、あっかねちゃーん」
「あ、あかねっ!」
「きゃあ!」
「この、くそじじい!!」
あかねと乱馬が放った拳が八宝斎を両側から挟む。
そして最大の悲劇が起こった。
すぽーんと抜けた鬼が──
あかねに取り憑いたのである。
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