邪悪の鬼、再び 中編

中編     邪悪とお札




「あ、あかねっ」
「あかねぇ」
「あかねくん!」
 頭を抑えるあかねの肩を揺すり、乱馬が問いかける。
「あかね、大丈夫か!?」
「……乱馬?」
 返った声は、普通だった。
 なにもなかったかのような声。
 一体何をそんなに慌ててるの? といったような声だった。
「おとーさんも、おじさまも。どうしたのよ。」
「ど、どーしたって、おめえ。なんともねーのか?」
「なにが?」
「いや、なにがって──」
 言いよどむ乱馬を押しやり、前進する。二歩先の畳の上に転がっている八宝斎を躊躇なくぎゅるりと踏みつけて、あかねは父親の下へ向かった。
「もう、おとうさんまでそんな顔して。あたしの顔になにかついてるの?」
 顔じゃなくて頭に角があるんだよ──とは言えず、「いやあ、なんでもないんだよあかね」と、乾いた笑い声をあげるしか、他に術がなかった早雲である。
「ねえ、乱馬。稽古するの、付き合ってよ」
「え、いやでも──」
「行ってこい、乱馬」
「でも、今のあかねは──」
「仕方あるまい。封印の札はあかねくんが持っておる」

 そうだ。
 なびきに貼ったあの札を剥がして持っているのは、あかねなのである。

「稽古の途中、なんとかそれを奪い取るのじゃ」
「おれが?」
「他に誰がおる。それとも貴様はあかねくんを殴って鬼を追い出すつもりか?」
「乱馬くん、まさか許婚のあかねに手を上げるような真似はしないよねえ」
 どろどろと顔で襲ってくる早雲に対して、慌てて首を振り、乱馬はあかねとともに道場へ向かった。



   *



 屈伸。手足を回して、軽く準備運動。
(札を奪えっつったって、どこに持ってんだかわかんねーよ)
 道着姿のあかねを見ながら、乱馬はうめく。
「ちょっと、さっきからなんなのよ!」
 あかねがしかめっ面で睨んだ。
 頬を膨らませて、むっとした顔でこちらを見るその表情は、いつものあかねの顔だ。
 ただ、角がある。
 それだけだ。
(──それが問題なんだけどな……)
 はあ……と、知らず知らずに溜息が洩れる乱馬である。

 稽古なんて、チャンスじゃない。
 なにかの拍子にかすったってことで、鬼追い出しちゃえば?

 道場へ向かう際に、なびきが耳元で囁いた言葉を思い出す。
 勝手なこと、言いやがって。
 んなことしたら、おじさんに殺されちまう。
 そう思うと同時に、それでなくともそんなことは出来ないと思った。
 真剣勝負でもないのに、女相手に手を上げるだなんて、早乙女流の名がすたるというものだ。まして、あかねに対して──


「乱馬?」

 俯いて、床を見ながら考え込んでいたところ、間近であかねの声がした。
 あかねが、下からこちらの顔を覗き込んでいる。
 大きな黒い瞳。
 そこに自分の顔が映っている。
 どうしたの? と傾げる首につられて髪がさらりと額を、頬を流れた。

「な、なんでも、ねえ」

 あわてて顔をあげ、逸らす。
 異様に動悸が高鳴っていることを自覚しつつ、なんとか自制するように息を整えると、あかねに向き直った。
 あかねは予想外に近くにいる。
 一歩引いた。
 一歩近づく。
 また下がった。
 すると寄る。
「なんで来るんだよ」
「なんで逃げるのよ」
「なんでって、稽古すんじゃねーのかよ」
「そうだけど──」
「……けど、なんだよ」
「せっかく二人っきりなのに、こうしてちゃ駄目?」
 拗ねたように呟くと、あかねはそっと乱馬の胸に顔をうずめる。
 あかねらしからぬ行動に、瞬間、乱馬の思考は停止した。
 頭に血が昇って、勝手に頬が紅潮して、身体が動かない。あかねの小さな手が自分の服を握り締める感触を、ぼんやりとだけ感じた。








「隙あり!」
「──へ?」
 と同時に、足元をすくわれる。揺らいだ身体。胸元を握り締めていたあかねが、その勢いにまかせて、乱馬の身体を引き倒した。
「やったぁ!」
「やったぁ、じゃねえっっ」
 手を叩いて喜ぶあかねに、乱馬はがばっと起き上がって叫んだ。
「なによ、負けたくせに」
「負けてねえ」
「負けたじゃない」
「あれのどこが勝負だ」
「油断したあんたが悪いのよ」
「ゆ、油断って、あれはおまえが──」
「あんなの、冗談に決まってるでしょ。馬鹿じゃないのあんた」
 そう言うと、ふふんと笑った。
 悪魔の笑み。
 やっぱりあかねとなびきは姉妹だ──と、口の端を引きつらせながら少年は思った。



   *



「して、封印の札はどうした、乱馬」
「んなことより、封印する箱はどーなってんだよ」
「それがなかなかねえ……」
「お菓子の空き箱ってわけにもいかないでしょうし……」
 居間。
 こそこそと顔を突き合わせて彼らは密談している。
 あかねは汗を流しに、風呂に入っている最中だ。文字通り「鬼の居ぬ間」に、対策を講じなければならなかった。
「でもさー」
 次女が口を開く。
「明日には、升は出来上がるんでしょう? だったら、一日ぐらいこのままでいいんじゃないの?」
「でも、なびき。あかねちゃんに、鬼が取り憑いたままなのよ?」
「誰かに取り憑いてれば、他の誰かは安全ってことでしょう?」
「なびきくん、そうは言っても、あかねくんがどんなことをするのかわからんぞ」


 ただでさえ、料理の腕が悪いあかねである。
 それが悪意を持って料理したとなれば──
 角を生やした笑顔で、大皿を差し出すあかね。
 黒い塊と、奇妙な色のタレ。
 鼻を突き刺す異臭。
 形容しがたい味──
 もがき苦しむ地獄絵図が、乱馬の脳裏を過ぎった。


 ただでさえ、大雑把なあかねである。
 それが悪意を持って、洗濯を手伝ったとしたら──
 ぼろぼろになった洗濯物
 色物と一緒にしたせいで、染色されたランニングシャツ
 腕が千切れたブラウス
 穴のあいたズボン
 せっかくの洋服がゴミと化す様を、なびきは口惜しい気持ちで想像した。


 ただでさえ、不器用なあかねである。
 それが悪意を持って家の掃除をしたとなれば──
 破れたふすま。
 外れた障子。
 穴のあいた天井。
 割れた花瓶と、しわくちゃになった掛け軸。
 再起不能と化す我が家をありありと想像し、早雲は蒼白になった。



 ずどーんと重い気持ちになって、一同は沈んだ。
 ぼそりと、なびきが言葉を吐く。
「……ここは乱馬くんの出番でしょう」
「どーゆー意味だよ」
「すまんねえ、乱馬くん。あかねのために……」
「それでこそ無差別格闘流の後継ぎじゃ」
 男泣きで父親二人が、乱馬の肩を叩く。
「おれにこれ以上どーしろってんだよ」
 訴える彼の顔には、無数の傷が刻まれている。あの後の「稽古」で、同様の手口に引っかかり、肉体的にも精神的にも、さんざんな目にあったのだ。やっと「稽古」が終わったというのに、さらに自分一人であかねに立ち向かえというのは、冗談じゃない。
 力いっぱいそう思った。
「なに言ってんの、あんた許婚でしょうが」
「なんの関係があんだよ」




「ごめんください」

 ガララ……
 玄関先で男の声がした。
「来たみたいね」
「どういう意味だい、なびき?」
「さっき電話してみたのよ」
「なんの話だよ」
「だから──」
「やあ、みなさんおそろいで」
 ゆったりとした動作で現れたのは──
「東風先生」
「すいません、勝手にお邪魔しました。実は、なびきちゃんから電話をもらって。なんでもあかねちゃんに鬼が憑いたとか」
「先生、なんかいい方法知ってんのか?」
「方法といっても、祓うだけじゃ駄目だよね。ちゃんと封じないと」
「でも──」
「うん、それも聞いたよ。封印のために升は、明日でないと完成しないって」
 乱馬の言葉に鷹揚に頷いて返し、東風は手にしていた紙の束を見せた。
「あれから探してみたんだ。残念ながら封じるための升になるものはなかったんだけど、替わりにこれを持ってきた」
「それはもしや……」
「ええ、お札です。とはいっても、実際ぼくはその鬼を見たわけではないので、この札で本当に効果があるのかどうかはわかりかねますが」
 それでも試してみる価値はあるでしょう──と、微笑んだ。
 一同に安堵の笑みが洩れた。
 力強い味方は、実はこんな近くにいたのだということに、今初めて気がついた。
「でかした、なびきくん」
「さすが、わしの娘」
 あとはもうどうにかなるだろうと、朗らかな気持ちで笑いあった。
「ところで先生」
「なんだい?」
「鬼を封じる箱だけど、どんなもんでも構わねーのか?」
「うーん、そうだねえ。札をして封印するからには、原則的に制限はないのかもしれないね」
 詳しくは調べてみないとわからなけど──と前置きをして、東風が言う。
「例えば木で出来た箱──、一番いいのは桐の箱だろうね」
「桐?」
「うん、桐は「斬り」に繋がる──、つまり、邪を断ち切るという意味が……」



「おとうさん、これなんかどうかしら?」

 鬼を封じる入れ物を探しにいっていた長女が、土鍋をもって現れた。
 そして、そこに新たな人影を見出し、微笑みかける。
「あら、東風先生」
「やあ、かすみさんっ」
 その途端。
 きらりと眼鏡が輝き、頬を染め、もじもじと、そして素っ頓狂な声で話しはじめた。
 ついさっきまでのしっかりとした調子は、もうどこにも見当たらない。
 今の彼は、ただのおかしな人であった。
「いやあ、こんな所で会うなんて、奇遇ですねえ」
「いえ、ここはうちですから」
「あははは、そうですねえ」
 せわしなく動く手が、恥ずかしさを誤魔化すためなのか。やがて、持っている札をビリビリと破り始める。
「だーっっ、なにを破いてんだ!」
「あははーははー、鬼はーそと、福はうち〜」
 そうして手にたまった、封印札のなれの果てを、外に向かって撒き始めた。白い紙がひらひらと散り、無常にも吹く風が庭を掃くようにしてそれを飛ばしていく様を、天道家の面々は呆然と見送る。
 封印札の最後の欠片が、池の淵に浮かび貼りついた。








「急用を思い出した」
「わしも野暮用が」
「あたし、友達と約束が」
 背広に帽子を被り、襟元を正しながら早雲が早足で廊下を歩き、それにつき従うように荷を背負った玄馬が追う。右手を軽くあげてそそくさと玄関へ向かうのはなびきである。
「待てーい!」
 一斉に逃亡を謀ろうとする家族に、とりあえず父親の首根っこをひっ捕まえて、乱馬は言った。
「逃げるつもりか、おやじ」
「何を言うておる。わしはただ別の方法を探そうとしておるだけではないか」
「適当なこと言ってんじゃねーや」
「ええい、あかねくんはおまえの許婚ではないか。そのおまえがあかねくんの相手をせず、誰がすると言うのじゃ」
「……ありがとう、乱馬くん……」
 ふんぞり返って玄馬が言いはり、早雲は涙を流す。
 乱馬は口の端を引きつらせながら、
「それを言うなら、おじさんだって、実の娘のことじゃねーかよ」
「父親である私が、あかねを殴るだなんて、そんなこと出来るはずないじゃないかね」
 当て身は食らわしたことあるじゃねえか──と思う背後で、今度は姉の声。
「その点、乱馬くんは他人だし」
「都合のいい時だけ他人扱いしやがって……」


「さっきから、なに騒いでるのよ」


 心底不思議そうな声がした。
 一同が振り返ると、そこにあかねが立っている。
 角が見えるほかは、いつもとなんら変わらない、天道あかねの顔だった。

「乱馬、なにしてんの?」
「な、なにって、いやそのつまり──」
 ぐるぐると思考を巡らせて、いいことを思いついたかのような笑顔で乱馬。
「そう、おやじと、修行にでも行こうかって、話をだな──」
「──おじさま、もう出ていったわよ」
「なにをっ!?」
 あわてて振り返ると、そこには誰もいない。
 なびきも、かすみも、東風の姿すら見えない。
 音も立てず、彼らの姿は消えている。
 まだ、近くにいるに違いない──と踏み出した足だったが、そこに置いてあった一枚の紙を思いっきり踏みつけて、ずるすてーんと盛大にすっ転んだ。仰向けになった乱馬の頭上からは、多少しわくちゃになってしまったその紙がひらひらと落ちてくる。がばっと起き上がり、顔に張り付いたそれを引き剥がして、目を通す。
 真っ白な紙の真ん中に、たった一言。


 『あとは頼む。』


(またおれ一人に押し付けやがったな──!)

 早乙女乱馬の悲痛の叫びは、ただ彼の胸の中だけに木霊した。











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